1906年にはじまったフランスグランプリの主催を途中から引き継いだ形となった情熱的なACO(フランス西部自動車クラブ)の面々は、1920年頃までさまざまなレースを行いながら、何か新しい形式のレースを開催したいと考えていた。そのとき、折りしもラッジ・ホイットウォースという大メーカーの重役エミール・コキーユから10万フランの寄付が舞い込んだ。これがきっかけとなり構想が進行。
身近な普通の生産車をレースの主役とし、24時間走り続け、走行距離の最も長いクルマを優勝車とする新しいレースが考案された。それも公道のサーキットで、日頃見慣れた生産車を走らせたいということから、ルマンが、その栄誉あるコースに選ばれたのだ。こうして走りはじめたルマンは、1923年からの長き伝統を持ち、最も過酷で、権威ある耐久レースとして、今なお世界から注目を集めている。この伝統を築くまでには、陰なる推進者、ACOの情熱を込めた試行と努力があるのだが、詳しい物語の検証については興味ある方々の研究心に委ねるとして、ここではルマンの歴史のなかに確かに存在し、時代を駆け抜けたスポーツカーに注目したい。栄光のルマン誕生の意図を汲み(昨年からGTクラスが復活したことであるし)、生産車として存在したスポーツカーの無数にあるエピソードから、わずかながらご紹介したい。

記念すべき第1回ルマン優勝車シュナール・ワルケル3リットル。直列4気筒、サイドバルブエンジンを搭載。ギアボックスは4速。無故障で走り続けるという快挙により、ラップタイムでは上回っていたライバルのベントレーを引き離してフィニッシュした。コースの全長は17.262km。基本的には現コースと同じだが、現在のようにグランドスタンド端から右曲してテルトルルージュに向かうのではなく、直進してルマン市街まで進み、ヘアピンを右にクリアしてユーノディエールの直線に入っていた。13.6kmの現コースより確実に長い直線を持つ、過酷なレイアウトだった。優勝車の記録は、平均時速92.064km/h、走行距離2209.536km。ドライバーはラガシュとレオナール。フランス製の車とフランス人ドライバーによって長いルマンの歴史の幕は切って落とされたのだ。この旧コースはルマン市街の道が狭く路面が悪いことから、1932年より現コースに近く改められた。


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