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スポーツカーに触れ、それに乗り込み、その匂いを嗅ぐと、私はいつでもクルマの裸の姿に接したように思う。 スポーツカーは、私を納得させるものを持っている。スポーツカーは、美しいものに恋することが、素晴らしいと語りかけてくる。 それは、スポーツカーが他のどんなクルマよりも、私を自由にする力が強いからだと思う。 乗る前のてらいも、恥ずかしさも、スポーツカーをドライブすると消えていく。 裸のクルマであるスポーツカーは、私も裸にしてくれる。 そして、私には、スポーツカーにこそクルマが生き残る知恵が隠されていると思えてならないのだ。 先日、セナに会った。セナの瞳は、濡れて美しかった。セナに会ったのは、東京モーターショーのときのことであった。 この日、ショー会場近くのホテルでF1フォーラムが行なわれた。セナはゲストとして出席し、私は総合司会者として出席していた。セナは、私から3人目の席に座っていた。 フォーラムは、'94年から実施されることが検討されているハイテク禁止に関するものであった。ハイテクの禁止は、F1をどのように変質させ、それは将来のF1にどのような影響を与えるだろうかといったことが、討議の内容であった。 セナの言葉は、多くの示唆に富んでいた。 それは、エンジニアにも監督にも思いもよらない考え方であり、まるで別世界の住人からのメッセージのようだった。 私は、セナの言葉が気に入っていた。発言の内容も気に入ったが、本当は少しなまりのある彼の英語のやわらかなトーンや、陰影のあるしゃべり方が、気に入っていたのかもしれない。 彼がしゃべりはじめると、知らぬ間に私は彼を見つめていた。会場をぐるっとひと回りして帰ってくる彼の、まるで音楽のような言葉の響きにうっとりしていたのかもしれない。 発言が重要な個所に至ると、私は無意識のうちにセナを見つめながらうなずいていた。セナの言葉の響きが、私にそうするようにメッセージとなって伝わってきたからだ。 そして、特に重要だと思える発言に関しては、私が補足説明を加えたのだが、それも、そうするようにセナの目が言っていたからである。 会場に向かって説明を始めると、セナは同時通訳のイヤフォンを耳に当てながら、私を見つめうなずいていたという。しかし、セナの視線は、次第に私にも伝わってきたのだった。 私は、セナを見つめてしまった私に驚き、セナから見つめられている自分に気付くと、次第に妙な気分に捕われていった。私のなかに浮き浮きした気分がやってきたのだ。 セナと私の間に、不思議な空間が形成され始めているような感覚に襲われ、さらにセナの瞳がフォーラムが進むにしたがって濡れてきたことがわかり、たじろいだ。 この目が、人を虜にする目だと、私は納得した。そして、セナに引き込まれつつある自分がわかった。 だが、フォーラムから逃れる手立てはなく、相変わらずセナの発言に頷き、頷き返されることが続いた。 私は、セナに完全に巻き込まれ、気付くとすでにセナの思うように発言しているのだった。 そして、セナは女性のように美しく、いや、正確に言うと、世の中のスーパースターが皆そうであるように、セナの美しさは中性的なのだが、私はなんとも幸せであった。 言葉は、論理を超えて響くとき、本当の力をあらわすと思う。そのような言葉はもう言葉ではなく、音楽であり、映像であり、ダンスだ。その人の全身から発せられるオーラである。 その響きを聴くと、知らぬ間にその人と一体になってしまう。そして、自分を縛っていた鎖から解き放たれ自由となる。これほど幸せなことはない。 人を自由にすることを、本当の説得というのかもしれない。それは、自由な人にして初めて可能なのだ。セナには、そうした人を納得させる力がある。彼は、人を自由にさせる力を持った人間だ。 フォーラムを終えても、不思議な感覚は耳にまるで残像のように残っていた。ナトリュームランプの灯る首都高速道路を走りながら、不思議な感覚を反芻する私に、電光のように襲ったイメージはスポーツカーであった。 セナは、スポーツカーなのである。そう、思う。 スポーツカーが私に与えてくれる世界を、セナは持っていると思うのだ。セナの持っている強烈なパワーは、人を自由にする力だ。スポーツカーの魅力もまた、それである。 しかし、セナの中性的な美しさと、彼のもたらす自由とはどうつながるのだろうか…。 |
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NSX Press vol.13 1994年3月発行 |