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ところで、トラックはもちろんのこと、セダンにしても、そのイメージは男である。
クルマが長らく男の論理で作られてきたから仕方がないことかもしれない。 スポーツカーは、そうした中で唯一女を感じさせるクルマだ。 いや、スポーツカーは、女には男のように、男には女のように感じられる存在であることを考えると、実は中性的な存在なのだ。 |
男は、男の論理の中で生きなければならない。男らしくと、生まれたときからしつけられている。そして、男はセダンに乗る。ああ、なんと不自由なことか。 女も同様に、女らしいことを強要されている。そして、女らしいクルマに乗れと言われる。それは、歯軋りをするほど悔しいことだ。 さらに不幸なことに、女は男らしい男を素敵だと感じるように感覚さえも変容され、男は女らしい女に惚れるように慣らされてしまっている。男も女も互いになんと不自由であることか。 だが、男も女も超えたバイセクシアルな存在は、そうした男と女という論理から自由な存在だ。だから輝いて見え、美しいのだろう。古今東西、神秘的な存在は中性であり、ときに神として崇められてきたことを考えると、頷けなくはない。 |
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スポーツカーは、男も女も美しいと感じる。両性から愛されるクルマであり、これほど性を差別しないクルマはない。また、スポーツカーを夢中で操る男も女も、美しい。スポーツカー・ドライビングには、人を輝かせるものがある。 おそらく、それはスポーツカーが中性的な存在であることで、乗ると、男は男であることを忘れ、女は女であることを忘れるからであろう。男も女も、もう存在しない世界が、スポーツカー・ドライビングなのだと思う。 その理由は極めて簡単だ。スポーツカー・ドライビングがもたらせるあの陶酔境に入れば、そこは無我夢中の世界であり、男だ、女だと気取っている暇もないからである。 一点に集中してドライビングしていると、自分さえも忘れてしまうものだ。ましてや、男だ、女だといったこだわりなど、とうに消えてしまっている。そこは、ジェンダーという社会的な性から解放された自由な世界だ。 セナは、きっとグランプリにおけるスーパーラップを驚異的な集中力で何度も繰り返すうちに、自由な世界を手に入れたのだろう。 セナがモナコで見たという神とは、すべての制約から解き放たれた自由な世界のことであり、そこはわたしたちには想像すらできない美しい世界だったであろう。 そして、その世界を垣間見ると、自由になれるのに違いない。それが、セナを美しくしているのだと思う。 私は、もう一人セナのように濡れた瞳をした男と出会っていた。酸素ボンベを使わずに105メートルの深海をダイビングし、水族館で飼われていたイルカに泳ぎを教える、ジャック・マイヨールである。彼もまた、中性的な魅力をたたえた男であった。 マイヨールは、100メートルもの深海にダイビングすると、からだが海に溶け出してゆくと言う。自分が消え、多くの制約から解き放たれる瞬間である。 そして、「自由は、あなたの心のなかにある」と私に語った。さらに、「自由になるには、心の衣を脱ぎ去ることだ」とも。 私たちは、様々な制約の中で生きている。心の衣を脱ぎ去って、セナやマイヨールのように、自由に生きることは中々できない。男や女というジェンダーの衣を脱ぐことさえできないでいる。 一方、私たちを縛っている社会の制約が、至るところで破綻を見せている。そのことを感じている私たちの無意識は、自由であることの気持ち良さを学べと、叫んでいるのではないだろうか。 セナのように自由にサーキットを飛翔することはできないとしても、私たちはスポーツカーを恋するハートを持っており、スポーツカー・ドライビングに、それが自由な世界に連れていってくれそうな気配を感じることができている。 私たちは、スポーツカーに乗るべき時代を迎えているのではないだろうか。 |
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NSX Press vol.13 1994年3月発行 |