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日本GPの興奮。

高速バトルと日本人ライダーの台頭

日本人ライダーが巻き起こした熱狂

相次いだGP参戦の成果

80年代中盤から90年代前半は、レースブームや日本GPの再開をバックボーンに、それまでにない日本人ライダーの積極的なGP参戦が行われた時期だ。当初はメーカーのワークスライダーが中心だったが、GPに関する情報量の増加と市販レーサーの充実によって、とくに資金の面や活動規模で現実的な可能性の高い125ccでプライベーターやコンストラクターの参戦が大きなムーブメントになっていた。

その結果、GPで戦う事で得たテクニックはもちろん、生活習慣やレースに対する意識もより向上し、日本人ライダーのレベルアップが急激に進む事になったのである。そしてシリーズランキングの上位にも日本人が食い込むようになり、1993年には250ccでヤマハの原田哲也が日本人としては16年ぶりにGPチャンピオンに、翌94年にはアプリリアの坂田和人が、95年と96年にはHondaの青木治親が125ccで相次いでチャンピオンに輝いている。

94年の日本GPでは開催3クラスすべてで、そんな日本人ライダーの活躍を象徴するレースが展開され、ファンや関係者はそれまでにない感動に包まれたと言ってもいいだろう。

トップライダーは日本人

94年の日本GP125ccでトップを争ったのは、91年の日本GPの125で電撃優勝を飾ったことで急遽GPフル参戦が決定した上田昇と、90年に全日本125チャンピオン獲得し上田と同じ91年にGPフル参戦した坂田和人、そして彼らを追うように93年からフル参戦を開始した辻村猛だった。

もともと、ワークスマシンの走らない125ccでは、単気筒のHonda RS125Rで長いレース歴を持つ日本人ライダーが、ライディングのノウハウやチューニング方法に長けていたと言ってもよく、全日本のトップライダーはGPでもトップレベルにいる事を上田や坂田はその活躍で身をもって証明していた。

フル参戦開始と同時にチャンピオンを争いに加わる実力を持っていた彼らにとって、この年はいわば“3年目の正直”であり、まさに他の追従を許さないスピードと気迫を開幕戦の鈴鹿で実現する事になる。

予選で鈴鹿のコースレコードを更新した上田は、決勝でもスタートから一気に逃げきる作戦に出て、極めて密集した状態になりやすいトップグループから離脱する形で独走態勢を築こうとする。対してスタートで出遅れた坂田は、上田が予選で記録したコースレコードを書き換えるスピードで上田を追う。ふたりの後方では予選で不調のマシンをあきらめ、決勝前夜にマシン仕様を大幅に変えて勝負をかけた辻村がいた。

1994年 125cc 先頭から上田昇、坂田和人、辻村猛

大きくレースが動いたのは、レース中盤にサスペンションにトラブルが発生しペースが完全に上げられない上田に坂田が追いついたレース終盤。この年からアプリリアに乗り換えた坂田は、Hondaほど伸びないトップスピードに悩んでいたため、ともにハンデは背負っていた事になり、そのため駆け引きは張りつめた状況の中で120%の走りを実現する必要があったように思える。

最終ラップのS字で坂田にかわされた上田は、110Rで再びトップを奪い返すと、そのまま何とか逃げきろうとした。坂田の追撃を振り切ろうとオーバースピードでスプーンカーブに進入した上田のマシンは宙に舞ってしまった。そして、その後方にいたのは坂田ではなく、上田が転倒する直前に坂田をかわした辻村だった。

そのまま逃げきった辻村は前夜にマシンを変えるという賭けに勝った歓びを爆発させ、走らないマシンで気迫がスピードに結びつかなかった坂田は表彰台で怒りを隠そうともせずにいた。

1994年 125cc 辻村猛

ベテラン日本人のGP初優勝

125cc同様、250ccでも日本人ライダー同士によるトップ争いが展開され、さらにここにイタリア人ライダーのグループが絡んだ激しいレースとなり、鈴鹿はさらに興奮状態となる。

スタートから飛び出したのは、予選3番手のHondaの岡田忠之だった。岡田は89年から3年連続で全日本250ccチャンピオンとなり、93年からGPにフル参戦していた。その岡田を追うのは、同じHondaで岡田に続く93年&94年に全日本250ccチャンピオンになった宇川徹と、翌年から2年連続で全日本スーパーバイクを制したHondaの青木拓磨。

この3人を核に、さらにHondaのロリス・カピロッシ(90年&91年の125ccチャンピオン)、ドリアノ・ロンボニ、予選トップだったアプリリアのマックス・ビアッジ(この年から4年連続250ccチャンピオンになる)のイタリア人ライダーが加わった6台でのトップ争いとなった。

このHondaに乗る日本のトップライダー3人と、GPチャンピオン経験者や注目されるトップライダーの戦い。あるいは熟成が進み高い完成度を誇っていたHonda NSR250に対峙する、伸張著しかったアプリリアによるトップ争いは、日本対イタリアのレースカルチャーの激突という側面を持っていた。これもまた、当時のGPの250ccを象徴する光景であった。

レース前半は、日本人3人が激しく順位を入れ替えながらトップを走り、後半になるとペースを上げたカピロッシ、ビアッジが、バトルを続けている事でタイムが上がりきらない日本人グループに割り込もうとしてくる。やがて青木は遅れはじめ、宇川もラスト1周でカピロッシに交わされる。さらにカピロッシは残りわずかな最終ラップの130Rで岡田を抜きさりトップに出る。

1994年 250cc ロリス・カピロッシ(#2)、岡田忠之(#8)、宇川徹(#56)

これとほぼ同時に宇川の後方にいたビアッジも、130Rで宇川をかわし、そのままの勢いでカピロッシと岡田をシケインで抜き去ろうとする。これは、あまりにも強引な賭けだったと言え、ビアッジは曲がりきれずにシケインをオーバーラン。

間近で大きく乱れたマシンの動きを見せられ、瞬間的に硬直したカピロッシのそのスキにマシンをねじ込み、シケインでカピロッシに並んだ岡田は、最終コーナー立ち上がりのベストラインを奪ったのだ。

そして、NSR対NSRの立ち上がり勝負はコンマ128秒という僅差で岡田に軍配があがり、GPライダーらしい巧妙な駆け引きを体得し、母国で自身のGP初優勝を実現。岡田のライダーとしてのポテンシャルを証明したレースとなった。

この時27歳だった岡田は最もライダーとして充実した時期に差しかかっており、2年後に500ccへステップアップし通算4勝を挙げているが、これは現在でも日本人によるGP最高峰クラスの最多優勝記録である。

1994年250cc 左からロリス・カピロッシ、岡田忠之、宇川徹

500ccでトップをねじ伏せる

Hondaのミック・ドゥーハンとスズキのケビン・シュワンツ、ヤマハのカダローラがコースレコードを相次いで更新するという激しい予選で、丹念にセッティングを探って予選7位となったのはHonda NSRでスポット参戦を果たした阿部典史だった。

子供の頃からGPライダーになる目標を持っていた阿部は、中学を卒業するとレース修行のために渡米して経験を積み、日本に帰国した直後から頭角を現し93年には史上最年少の18歳で全日本500ccチャンピオンを獲得し、GP参戦へのステップとして日本GPにスポット参戦=GPデビューを果たしたのである。

当時、最も注目される日本人ライダーのひとりとして、ファンや関係者の期待を集めた阿部だが、もちろんGPでの走りは未知数だった。しかし、決勝レースが始まってみると周囲の期待を上回るほどの戦いを展開し、鈴鹿サーキットは熱狂の渦に包まれた。日本人ライダーが500ccでトップを争うという、レースファンの悲願でもあった光景が阿部の走りによって現実のものとなったのだ。

予選トップのカダローラがスタートで先行すると逃げきるようにも思えた序盤だが、思ったようにペースを上げられずにいると、追いついてきたドゥーハン、阿部、シュワンツ、そしてHondaの伊藤真一による5台のトップ争いが始まる。

その中からカダローラを激しくプッシュしていた阿部が10周目にトップに立つと、その走りと一緒に大歓声が鈴鹿サーキットを駆けめぐった。さらにカダローラがペースを落として後退すると伊藤を従える形で、阿部とドゥーハン、シュワンツが当時の鈴鹿のコースレコードに近い2分9秒台で三つ巴のバトルを展開。

1994年 500cc  先頭からミック・ドゥーハン、阿部典史、ケビン・シュワンツ

この中で主導権を握っていたのは阿部で、ドゥーハンとシュワンツという500ccの2強に正面から勝負を挑み、レース序盤からスキあらばどこからでも仕掛けてくる阿部にふたりも困惑気味。それはちょうど、88年にシュワンツがガードナーを相手に見せたような、若さに満ちた鮮烈な走りだった。この時、阿部は弱冠19歳。

中盤にはトップに出たシュワンツが阿部とドゥーハンを引き離しにかかるが、ふたりもペースアップしてすぐにシュワンツは3台のグループに引き戻されてしまう。この、かつてなかった日本人ライダーの快走には、500ccでは82年のHondaの片山敬済以来となる日本人優勝への期待が高まった。

1994年 500cc 阿部典史

ラスト4周あたりから2分9秒台を連発し再びスパートかけたシュワンツに引き離されまいと、阿部はドゥーハンを強引に抜き去って2位に浮上。広がったシュワンツとの差を埋めようと必死の追走を続けるが、ラスト2周に突入した1コーナーでスリップダウンしてしまう。優勝はシュワンツ、約3.5秒遅れてドゥーハンが2位。

阿部はリタイアしてしまったが、それは価値あるリタイアだったと言えるだろう。この活躍によって阿部は多くのGPチームにインパクトを与え、結果的にはGPフル参戦の切符を手に入れたのだ。阿部をスカウトしたのは誰あろう、ケガで引退を余儀なくされ、ヤマハ系のGPチームのマネージャーとなっていたウェイン・レイニーだった。

1994年4月24日世界選手権第3戦・第13回日本GP結果

■500cc(21周)
1位 ケビン・シュワンツ スズキ 45分49秒996
2位 ミック・ドゥーハン Honda 45分53秒470
3位 伊藤 真一 Honda 45分57秒985
4位 ルカ・カダローラ ヤマハ 46分18秒12
5位 アレッシャンドレ・バロス スズキ 46分26秒539
6位 本間 利彦 ヤマハ 46分27秒321
7位 アレックス・クリビーレ Honda 46分31秒943
8位 アルベルト・プーチ Honda 46分44秒761
9位 ジョン・コシンスキー カジバ 46分49秒376
10位 ダグ・チャンドラー カジバ 47分01秒702
11位 ベルナルド・ガルシア ROC ヤマハ 47分19秒834
12位 ジョン・レイノルズ ハリスヤマハ 47分25秒406
13位 ジェレミー・マックウィリアムズ ヤマハ 47分44秒788
14位 ルーレン・ナブー ROC ヤマハ 47分48秒493
15位 ファン・ロペス・メッラ ROC ヤマハ 47分57秒612

■250cc(21周)
1位 岡田 忠之 Honda 42分28秒242
2位 ロリス・カピロッシ Honda 42分28秒370
3位 宇川 徹 Honda 42分28秒556
4位 マックス・ビアッジ アプリリア 42分30秒351
5位 青木 拓磨 Honda 42分32秒83
6位 ドリアノ・ロンボニ Honda 42分38秒538
7位 ジャン・フィリップ・ルジア アプリリア 42分43秒901
8位 青木 宣篤 Honda 43分07秒349
9位 原田 哲也 ヤマハ 43分17秒999
10位 ルイス・ダンティン Honda 43分19秒2
11位 ジャン・ミッシェル・バイル アプリリア 43分40秒776
12位 ヨルゲン・ヴァン・グールベルグ アプリリア 43分49秒825
13位 パトリック・ヴァン・グールベルグ アプリリア 43分52秒574
14位 アディ・スタッドラー Honda 43分53秒160
15位 エスキル・スッター アプリリア 44分11秒834

■125cc(18周)
1位 辻村 猛 Honda 42分13秒168
2位 坂田 和人 アプリリア 42分13秒838
3位 仲城 英幸 Honda 42分26秒520
4位 ピーター・エッテル アプリリア 42分29秒91
5位 斉藤 明 Honda 42分31秒402
6位 徳留 真紀 Honda 42分31秒484
7位 ホルヘ・マルチネス ヤマハ 42分53秒226
8位 ヘリ・トロンテギ アプリリア 42分53秒399
9位 ギャリー・マッコイ アプリリア 43分12秒534
10位 ブルーノ・カサノバ Honda 43分12秒892
11位 ローク・ボデリエ Honda 43分23秒887
12位 天野 邦博 Honda 43分30秒818
13位 オリバー・コッホ Honda 43分34秒470
14位 マンフレッド・ゲッセラー アプリリア 43分36秒800
15位 ステファン・プレイン ヤマハ 43分37秒424

人とマシン、新たな時代へ

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