東 雅雄という男
トップ > 1 > 2 > 3
第一章 釣り好きの少年が世界にはばたいていくまでには
泊まりはいつもトラックの中
地方選手権のデビュー戦は、1992年2月に岡山県のTIサーキットで行われることになっていた。それまで数回TIサーキットへ練習走行に行った東は、香川県観音寺を本拠地とする“チーム・フジワラ”で世話になるようになった。ノービス・クラスとはいえ、パーツやタイヤなどの消耗品の価格は高く、ランニングコストを維持していくだけで大変だったので、どうしてもパーツ類は“付け”で買うことになったのだった。

TIサーキットで行われたノービス・クラスのデビュー戦で、東は3位に入った。優勝したのは当時スーパールーキーといわれ、現在スーパースポーツ世界選手権で活躍している藤原克昭。当時、東は20歳で藤原克昭はまだ16歳だった。その時点で、東は特に世界グランプリを意識していたのではなかった。世界グランプリのテレビ番組は見ていなかったし、特に好きなライダーがいたというわけでもなかった。ただ、デビューの前年、“チーム・フジワラ”のボス、藤原健二に宮城県スポーツランド菅生で行われた全日本選手権のレースを見に連れて行ってもらったことがあった。その時に、早く自分も全日本選手権に出場したいと思うようになっていたのである。 TIサーキット 英田

だが、実際に全日本選手権のレースを見ても、東はそんなに驚いたわけではなかった。確かに500ccレースは迫力があり、当時活躍していた伊藤真一や辻本聡といったトップ・ライダーの走りは見ごたえがあった。しかし、125ccレースの方はプライベート・ライダーの集まりで、東は“ミニバイクとそんなに変わらないな”という感想を持ったのだった。この年(1992年)、東は地方選手権でランキング2位になった。チャンピオンは藤原克昭で、翌年二人揃って国内A級に昇格した。

本格的にレースを始めるようになった東は、地方選手権にデビューした1992年にそれまで勤めていた自動車メーカーのディーラーを辞めている。レースに出場するためには、どうしても休みをまとめて取らなくてはならない。また、東自身、自分がやりたいことを思いっきりやってみたい、レースは今しかできない、と考えた結果だった。ディーラーを辞めた東は、いくつかの職を転々とした。レースや練習走行に行く時間が取れ、収入もそれなりに良い仕事を求めていた東に、ミニバイク時代の知り合いが実家のパチンコ店を紹介してくれた。さらに東は、夜はカラオケボックスでアルバイトをして、レース資金を捻出していったのである。レースや練習走行に出かけている時以外はほとんど仕事をしていた東だったが、ハードな生活が辛いと思ったことはなかった。ただ、遠いサーキットへ遠征する時はしんどかったのを覚えている。

たとえば四国からスポーツランド菅生へ行くときには、朝、香川のチーム・フジワラへ行って2トントラックにマシンや他の荷物を積んで夕方出発し、途中鈴鹿でチームメイトを拾ってから夜な夜な東名高速、首都高、東北自動車道と走っていく。菅生に到着する頃にはちょうど夜が明けるのだった。また、サーキットでは旅館や民宿に泊まるのではなく、必ずチーム員全員がトラックで寝泊りしていた。食事は外に食べに行き、風呂は近くの銭湯や温泉に入りに行くという生活。しかし、実際にはトラックでの寝泊りは、自分の布団を持ち込んでいたのでまったく苦痛ではなかったという。
トップ > 1 > 2 > 3
<<前頁 | 次頁>>
ページの先頭へ