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inside HPD〜語り継がれるアメリカン・ホンダ・レーシング・スピリット
vol.1堀内大資(Daisuke Horiuchi)Hondaパフォーマンス・ディベロップメント(HPD)チーフ・エンジニア
「インディ・プロジェクトの最前線基地として」

各レースで参戦チームをサポートする仕事もあって、本番でエンジンの性能をフルに引き出すための、エンジン・マネージメントもやらなければなりません。もちろん、レース・エンジンの組み立てやチェックもそうですが、ほとんどが現地採用のスタッフにとって、初めて体験することばかりでした。

参戦3年目の1996年に初マニュファクチャラーズ・タイトルを獲得。アメリカ人スタッフとともに得た栄光の瞬間です。 参戦3年目の1996年に初マニュファクチャラーズ・タイトルを獲得。アメリカ人スタッフとともに得た栄光の瞬間です。

そのため、経験豊富な日本人が交代でこちらに駐在し、指導しながら進めていきました。英語がうまく伝わらずに大変でしたけど、とてもやりがいのある仕事でしたよ。参戦3年目の1996年まで日米混合チームで一緒にレースを戦っていたのですが、その年に初めてチャンピオンを獲得することができ、みんなで喜んだのは今も忘れられません。

1997年以降はエンジンを供給するチーム数が増えたので、現地採用のスタッフが増えました。経験を積んだメンバーも多くなっていき、彼らにリーダーとなってもらい、2000年の時点で日本人の駐在は3人だけです。2002年の終わりにCARTを撤退するまで、HPDはこの体制で運営されました。

2002年の日本人は3人だけでしたが、CART最終戦にはそれまで関わった大勢のエンジニアが日本から来ました。 2002年の日本人は3人だけでしたが、CART最終戦にはそれまで関わった大勢のエンジニアが日本から来ました。

HPD創設からちょうど10年目となる2002年をもって、CARTから撤退することになりましたが、3メーカーを相手に165戦中65勝を挙げることができました。この間、マニュファクチャラーズ・タイトルを4回も獲得したメーカーは、他にありません。年ごとに現地化を進めながら、これだけの記録を打ち立てることができたHPDですが、翌年からは今までにない、新しい挑戦が待っていたのです。(vol.2につづく)

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