アメリカン・ホンダ・モーターは、Hondaのチャレンジング・スピリットを広くアメリカでPRすることや人材育成を目的とし、'93年1月にPPGインディカー・ワールド・シリーズへの参戦計画を発表した。それにともない、'93年4月にはレースチームへのエンジン供給を行う100%出資子会社、ホンダ・パフォーマンス・ディベロップメントを設立した。
アメリカンレースが、伝統的にエンターテイメント性を非常に大切にしているがために、当時からインディカーの技術的競争は非常に厳しいものがあった。
Hondaは'94年3月にデビューを果たすが、その注目の高さとは裏腹に、全16戦中完走13戦、表彰台登壇は1戦のみという結果に終わる。シーズン途中のインディ500開催直前にはエンジン供給先のレイホール・ホーガン・レーシングからインディ500でのエンジン搭載をキャンセルされ、その後第11戦の直前には翌'95年のエンジン供給契約をしないという旨の通知を受けてしまう。
その屈辱がHRH型という新エンジン開発の起爆剤となり、それまでの耐久性を重要視した鋳鉄性ブロックのエンジンの改良に取り組むと同時に、アルミブロックを採用した新型エンジンを並行開発し、エンジン軽量化を実現するのである。
参戦2年目の'95年の第15戦、ニューハンプシャーでルーキーのアンドレ・リベイロ(タスマン・モータースポーツ)のドライブによって、念願の初優勝を果たす。
そして、参戦3年目の'96年シーズンには、4チーム6台に供給する体制となり、開幕戦で1-2フィニッシュを飾り、続いて4連勝。そして年間16戦中、インディ500を含めて11勝という戦績は、マニュファクチャラーズ・タイトル、PPGカップチャンピオン、ルーキー・オブ・ザ・イヤーという三冠達成をもたらした。
その後Hondaは、計9年間で165レースに出場して65回の優勝を記録し、マニュファクチャラーズ・タイトルを4回、ドライバーズ・チャンピオンを6年連続で獲得するという偉業を達成した。しかし、'03年シーズンからエンジン規定をV型8気筒3.5リッターN.A.に変更するとのCART側の決定を受け、1年間という短期間で競争力ある新エンジン開発は不可能と判断し、'02年シーズンをもって参戦を中止する旨を発表した。
しかしながら、アメリカでのモータースポーツ参戦と、世界3大レースであるインディ500への挑戦の継続のため、'03年よりIRL インディカー・シリーズにエンジンサプライヤーとして参戦することを決定したのである。
そして、'06年第7戦において、'94年3月の北米フォーミュラカー・シリーズ参戦開始から通算100勝目を達成した。
また、'07年シーズンからは、アメリカン・ホンダ・モーターは、アキュラブランドでアメリカン ル・マン シリーズのLMP2クラスに参戦を開始した。ホンダ・パフォーマンス・ディベロップメントがHonda海外現地法人としては初めて独自で開発設計したACURA LM V-8エンジンを搭載した3チームが参戦している。初戦セブリング12時間レースではアンドレッティ・グリーン・レーシングがデビューウインを飾り、第2戦ではハイクロフト・レーシングが3位表彰台を獲得するなど好調なスタートを切っている。
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