モータースポーツF1Honda F1 参戦の歴史第3期
第1期

1998年3月、HondaはF1レース活動復帰に向けて、具体的な検討に入ったことを公表した。今度は第2期のエンジン開発・供給体制に加えて、新たに車体の開発・製造、およびチーム運営までを含めた総合的なレース活動を行うことを目指し、厳しい極限へのチャレンジを通じた若い技術者の育成、最先端技術の蓄積を狙いとした。

そして、2000年よりF1復帰。参戦2年目の若いチームB・A・R(ブリティッシュ・アメリカン・レーシング)とパートナーシップを組み、エンジン供給および車体の共同開発という新たなスタイルでのF1参戦となった。若いチームと一緒にチャンピオンシップを獲得するという目標は、とてもチャレンジングであったが、Hondaが休止していた8年間のF1世界の技術進歩は凄まじく、トップチームと争えるようになったのは、参戦5年目の04年シーズンになってからであった。

この年は、ジェンソン・バトンと佐藤琢磨の体制で、オフシーズンのテストから好調さをみせていた。B・A・R Hondaは、バトンが第2戦での3位表彰台獲得をはじめ、4度の2位を含むシーズン10度の表彰台登壇を果たした。その結果、バトンはドライバーズランキング3位を獲得した。一方の佐藤琢磨も、第3戦で5位入賞を果たすと、第9戦アメリカGPでは、日本人ドライバーとして実に14年ぶりとなる3位表彰台を獲得。シーズン9度の入賞で、ドライバーズランキング8位となった。これにより、B・A・R Hondaはコンストラクターズランキング2位を獲得した。

翌05年は、誰もが第3期の初優勝を期待したが、バトンがポールポジション1回、3位表彰台2回を獲得するに止まり、コンストラクターズランキング6位、ジェンソン・バトンがドライバーズランキング9位、佐藤琢磨がランキング23位という、残念な結果でシーズンを終えた。

そして06年、38年ぶりにHonda単独のチームとしてエントリーする新生Honda Racing F1 Teamは、ジェンソン・バトンとルーベンス・バリチェロの新体制でシーズンに臨んだ。また、鈴木亜久里代表率いる新チーム「SUPER AGURI F1 TEAM」にエンジン供給を決めた。そして、8月6日ハンガリーGPで、バトンが遂に自身初優勝を果たし、チームに記念すべき初勝利をもたらした。Hondaワークスチームとしての優勝は、67年第9戦イタリアGPでジョン・サーティースが獲得して以来、実に39年ぶりの優勝であった。

07年、「環境問題解決への取り組み」というテーマの下、“地球”のカラーリングをまとったニューマシンRA107と、昨年に引き続きバトン&バリチェロのラインナップでHonda Racing F1 Teamは2年目を迎えた。しかし、開幕戦から苦戦を強いられ、バトンが第8戦で8位入賞して1ポイントを獲得するに止まり、シーズンを折り返す。夏休み期間を返上しての開発作業によりパフォーマンスにも改善が見られ、第13戦イタリアGPでは再び入賞。終盤戦でのばん回を目指してさらに開発は進む。一方、SUPER AGURI F1 TEAMには佐藤のB・A・R Honda時代のチームメート、アンソニー・デビッドソンが加入。佐藤も着実に進化を見せるマシンSA07を駆り2度の入賞を果たすなど、母国GPに向けて競争力のさらなる向上が期待される。

ジャック・ビルヌーブ
B・A・R Honda(2000年)
ジェンソン・バトン
B・A・R Honda(2004年)
佐藤琢磨
B・A・R Honda(2004年)
Honda Racing F1 Team(2006年)
ジェンソン・バトン
Honda Racing F1 Team(2007年)
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