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裕紀・貴晶・謙汰 頂点を目指せ!

Vol.5 中上貴晶・グランプリ復帰への道のり――前編

2012年シーズンにMoto2クラスへ参戦し、世界グランプリへの復帰を果たした中上貴晶は、ここに至るまで、同世代の平均以上に紆余曲折を経験してきたといえるでしょう。これから数回に分けて、彼の歩んできた道のりを大まかに振り返ります。

1992年2月9日生まれの中上が初めて乗った二輪車は、多くの選手たちと同様にポケバイでした。4歳の誕生日に両親から与えられ、「両親の趣味がカートだったので、父たちがレースをやっている間の時間つぶしに駐車場などで乗っていました。とても楽しくて、時間があればひたすら乗っていましたね」と中上。

その後、買い与えられて一年が経過するころから、ポケバイサーキットにも通うようなり、5歳を目前にサーキットデビュー。当初は知り合いもおらず、ひとりで活動することが多かったようですが、やがて同年代の子どもたちと親しくなりポケバイサーキットの内外で親しく交流するようになります。コース上では幼いライバル同士として競い、サーキットを離れると仲よく一緒に遊ぶ、といった日々でした。現在、全日本選手権で活躍する渡辺一馬や、一昨年に他界し、世界中のファンに惜しまれた富沢祥也選手もこの頃に知り合った仲間です。少年たちはよき友、よきライバルとして切磋琢磨を続け、ミニバイクから地方選手権、そして全日本選手権へとステップアップをしていきます。

中上が全日本時代に所属していたチームはハルク・プロ。言わずと知れた、本田重樹監督が率いる名門チームです。中上が全日本ロードレースに参戦をしていたこの当時、世界の舞台では、ハルク・プロ出身の青山博一と周平がMotoGPの250ccクラスで戦っていました。中学生の中上少年にとって、青山博一や周平はすでに世界の頂点を走る、少し遠い存在だった、といいます。

「話をさせてもらったことはもちろんありましたが、接する機会自体があまりなかったので、どちらかというと、ちょっと遠いところにいる人たち、という印象がありましたね。もともと自分は緊張する性格ではないので、話をさせてもらったときでも、とくにアガったりするようなことはなかったのですが、質問をしたときには必ず的確に答えてくれていろんなアドバイスをもらうことができたので、とても心強くありがたい存在でした」

また、ハルク・プロというすばらしい環境でレースをできたことも大きな糧になった、と中上は振り返ります。

「当時は14歳で、自分がどれだけ恵まれているかということもまだわからない状態でしたが、とにかくただ速く走りたいという一心で毎戦戦っていました。今考えても、完ぺきな状態でレースに臨めていたと思います。ハルク・プロは間違いなく日本で一番のトップチームだと思うし、その中で本当にいろんなアドバイスを与えていただきながらたくさんのことを学んで、スキルを上げてもらいました。本当に価値のある、全日本時代だったと思います」

全日本GP125クラスにフル参戦を果たした2006年は、6戦6勝を飾り、小山知良の持っていた最年少チャンピオン記録を更新しました。そして、この年は、MotoGPを運営するDORNAの<MotoGPアカデミー>に合格し、全日本と平行してスペイン選手権にも参戦を開始することになりました。が、こちらでは全日本と違って苦戦を強いられてしまいます。

「日本とスペインをあわただしく往復してタイトなスケジュールでレースを続けること自体は、レースが好きなので全然苦にはならなかったんですけど、当時は14歳で英語もまだ全然話せない状態ですからね。日本語しか理解できないし右も左も分からないまま、最初からひとりで現地に飛びこんでいったので、非常に苦労をしましたよ。バイクに関することは自分の言葉で伝えることが最も大切だけど、とくに1年目は言葉の壁が立ちはだかっていて(笑)。でも、MotoGPアカデミーは自分とほぼ同世代の選手ばかりだったので、言葉の壁以外は楽しくシーズンを過ごすことができたし、みんなとコミュニケーションをとったり一緒に遊んだりしながら、少しずつしゃべれるようになっていきました。レースで結果こそ出すことはできませんでしたが、普通の14歳や15歳ではありえないくらいの、貴重な経験をさせてもらいました。ダニー・ウェブやスコット・レディング、ジョナス・フォルガーが当時のアカデミー同期生です。イサック・ビニャーレスも、今年からMoto3を走るようになりました。みんなとは今でも仲がよくて、当時のアカデミー生だったほとんどの選手がGPパドックにいるのは、なんだか、うれしいですよね」

2006年と07年の2年間、スペイン選手権の場でMotoGPアカデミー生として鍛えられた中上は、08年から勇躍、MotoGP125ccクラスに世界フル参戦を果たします。しかし、そこでは想像以上の苦しく厳しい戦いが彼を待ち受けていたのです。

さて、話を現代に戻して、2012年第4戦フランスGPでは、不安定なコンディションにも悩まされた中上はマシンセットアップを十分に詰めることができず、24番グリッドからのスタートとなりました。レインコンディションになった日曜の決勝レースでは、周回ごとに着実に順位を上げてパフォーマンスを発揮、12周目には7番手まで浮上していました。しかし、その後に接触を回避するため順位を落としてしまい、18周目にはバックストレートエンドで雨に足下をすくわれて転倒。惜しくもリタイアとなりました。そんな中でも、次戦に向けてセットアップの方向性をつかむことができたのは収穫だったといえるでしょう。10代の苦労を糧として、たくましく成長を続ける中上の次戦に期待がかかります。

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