1994年日本GPでの日本人の活躍は、その当時のGPにおける日本人ライダーの躍進を象徴していたと言っていい。93年にはヤマハの原田哲也が日本人初のGP250チャンピオンに輝き、GP125では94年と98年にアプリリアの坂田和人が、95年と96年にはHondaの青木治親が相次いでチャンピオンを獲得した。
日本GPではGP125における日本人の覇権を証明するように、94年から8年連続で日本人が125ccで優勝し続けた。また、94年に活躍した阿部典史は、96年の日本GPではヤマハに乗って日本人14年ぶりのGP500優勝を記録、さらにGP250にスポット参戦したHondaの加藤大治郎は97年、98年と連続優勝した。
同時に、原田や坂田、あるいは阿部のように、その実力を評価されて海外メーカーや海外チームに迎えられたライダーも相次ぎ、ファンの関心は日本人の「誰が」勝つかにあり、チャンピオン争いの主人公となった日本人の姿にあった。中でも阿部と加藤の2人は、日本を代表する新世代のライダーとして大きな期待と人気を集めた。そんな時代の極みが2000年の日本GPだった。
94年、96年〜99年までの5回の日本GPでは、開催3クラスのうち2クラスで日本人が優勝するという結果になっていた。125ccと250ccでは日本人が表彰台の常連となっていたものの、当時の国内ではレース開催がなく育成環境もなかった500ccは“日本人の優勝は難しい”とさえ思われていた。しかし、阿部というライダーの出現によりそれが実現されると、いよいよ日本人による日本GP完全制覇への期待は高まっていたのである。
スペインのデルビというメーカーはかつてのGPで“赤い悪魔”あるいは“赤い弾丸”と呼ばれた小排気量の名門メーカーだった。1988年のGP125単気筒レギュレーションの実施とそれに伴うHonda RS125Rの台頭、あるいは89年でGP80が廃止されたことなどによって、91年にGP活動を中止していた。
そのデルビが1999年に活動を再開した際に、エースライダー兼開発ライダーとして迎えられたのが宇井陽一だ。宇井は95年にヤマハで全日本125チャンピオンを獲得し、96年からGP125に挑戦していたが、そのマシン開発能力を評価されてのデルビワークス入りだった。その年、宇井は早くも表彰台を獲得している。
2000年。自らがさらに熟成させたマシンを走らせる宇井は、開幕戦は転倒リタイア、第2戦はトップにいながら最終ラップの最終コーナーでアプリリアのロベルト・ロカテリにかわされ2位。これをふまえ、第3戦となる日本GPでは燃料消費が進んでマシンが軽くなるレース終盤に勝負をかけるセッティングで臨んだ。
予選では、ただひとり2分14秒台を記録し、それまでのコースレコードを上回るタイムでポールポジションを獲得。日本GPでの宇井の速さは際立っていた──決勝ではロカテリがトップで逃げきりを図るが、宇井はその後方ぴったり2秒差につけ、終盤の逆転を虎視眈々と狙っていた。
その存在に過度のプレッシャーを感じたのか、ロカテリの走りは小さなミスが目立ち安定感を欠いていた。そして、18周のレースの終盤となる15周目、宇井が仕掛ける前にロカテリは転倒して自滅してしまう。
宇井は独走状態で、自身のGP初優勝とデルビにとって11年ぶりの勝利を鈴鹿で記録した。この結果、宇井はランキングトップに立ち、この年はそのまま上位を争い続けシリーズランキング2位を獲得。さらに日本GPでは2位上田 昇、3位東 雅雄と、この年のGP125にフル参戦する日本人が表彰台を独占することになった。
GP250の主役は1993-94年の全日本250チャンピオンで96年からGP250参戦を続けるHondaの宇川 徹、同じく98年全日本チャンピオンで99年フル参戦を開始したヤマハの中野真矢、そしてこの2000年からフル参戦となった97年の全日本チャンピオン、Hondaの加藤大治郎だった。
中でも加藤は21歳になる97年にHondaワークス入りし、スポット参戦した97年と98年の日本GPの250で2連勝を挙げている。このことで国内外にその名が広く知れ渡り、多くのファンを獲得していた。
全日本で加藤のライバルでひと足先にGP参戦を実現した中野は、2000年開幕2連勝と絶好調。さらに加藤の先輩格の宇川は前年のGP250ランキング2位と、こちらもライダーとしては絶頂期にあった。3人それぞれがトップライダーとしてファンの期待を集めており、日本GPにおけるこの3人への注目は並大抵ではなかった。
2分8秒台中盤で順位を目まぐるしく入れ替えた予選では、ただひとり2分7秒台に突入した加藤がポールポジションを奪い、予選最終ラップで2位に食い込んだヤマハのオリビエ・ジャック、中野、宇川の順で、コンマ88秒の間に並ぶ結果となった。
決勝は中野を先頭にこの4人が飛び出したが、序盤から激しく順位を入れ替える戦いにジャックは付いていけず、その差は広がるばかり。やがて加藤を先頭に中野と宇川が1秒以内に収まって2分9秒台前半のハイペースで鈴鹿を駆け抜けていく。
レース終盤。トップを奪いたい中野は加藤を猛チャージ、コーナー毎に順位を入れ替える攻防が展開される。さらに残り3周になると、その間隙を縫って宇川が2位を奪取。最終ラップは3人が実にコンマ3秒の中に並ぶという文字通りの接戦となった。
ここで、最後の勝負を仕掛ようとした中野が、130R立ち上がりでリアを大きく滑らせ一瞬遅れると、レースは加藤と宇川の一騎打ちに。最終コーナー手前のシケイン進入、ここで加藤は強引にイン側のラインを通り宇川をブロック。一瞬フロントが切れ込んで、加藤は大きくバランスを崩す。
歓声と悲鳴の中、そのまま開け続けた加藤が優勝。2位宇川との差は僅か0.129秒。その0.1秒後方から中野。3人は絡み合うようにゴールした。そして、4位のジャックがゴールするまで、観客はそこから15秒も待つことになった。
GPの歴史に残る名勝負は、流れる国歌とともに観客の記憶に深く刻まれた。加藤は翌年、GP250で年間最多優勝記録の11勝を挙げ、93年の原田以来となるGP250チャンピオンを獲得している。
1994年の日本GP、500ccで阿部が展開したトップ争いは、後年にGP500の、そしてMotoGPのチャンピオンとして君臨することになるバレンティーノ・ロッシに“自分からサインを求めたのは阿部だけ”と言わせるほどのインパクトを与えた(当時ロッシは125ccのローカルライダーだった)。そして阿部は、翌95年からヤマハのトップライダーの1人として、GP500にフル参戦を開始。
96年に日本GPで念願の500cc初優勝を記録すると、この年のランキングを5位とし、名実ともにGPのトップライダーとして日本中の期待を集めた。しかし、情熱あふれるその走りがマシンや状況とうまく噛み合わないことも多く、あと少しのところで表彰台を逃すようなレースを続けていた。97年7位、98年8位、99年6位というランキングが、それを物語っている。
99年はシーズン終盤の第15戦で、96年の日本GP以来の優勝を記録し、2000年へ向けて好感触をつかんでいた──その2000年の日本GPで、再び阿部は観客を熱狂させる。
予選でただひとり2分6秒台を記録し、圧倒的なスピードを見せつけたのはこの年チャンピオンを獲得するスズキのケニー・ロバーツ。これにヤマハのマックス・ビアッジ、スズキの梁 明が続く。マシンセッティングを煮詰めきれなかった阿部は9番手で、決勝スタート直前にホイールサイズを変更するまでして、試行錯誤を続けていた。
そして決勝はビアッジ、得意のロケットスタートを決めた阿部、ロバーツ、Hondaの岡田忠之、前年のチャンピオン・Hondaのアレックス・クリビーレの順で幕を開けた。この5人は序盤から攻め合いを展開し、そのことでペースが上がらず、追いついたセカンドグループが加わる形で一時は10台近いトップグループが形成される。
この125ccのような接戦の中でビアッジが転倒すると、ロバーツとクリビーレがここから抜け出して激しくトップを争う。その後方で、虎視眈々と、落ち着いてトップを狙っていたのは阿部、そしてこの年NSR500でシーズン3勝を挙げる岡田だった。
結局、序盤のバトル、あるいはその後の激しいトップ争いで、ロバーツとクリビーレのタイヤは著しく消耗し、レース終盤のペースアップが不可能になった。タイヤの負担を抑制するためにホイールサイズを変更し、後方で様子をうかがう作戦に出た阿部の判断は正解だった。
残り4周、まず阿部は1コーナー進入でロバーツを抜き去り、直後のダンロップコーナーでクリビーレもパス。得意のハードブレーキングでトップを奪い返そうとしたクリビーレは、スプーンカーブであわや転倒という場面を演じて脱落。
その後もロバーツは阿部を追うが、すでに限界を迎えたタイヤが滑りはじめ攻めきれないでいた。阿部はその事実さえ知らないままひたすら逃げ続け、最終ラップの130Rでもひとり大きく振られながら大歓声沸き立つストレートへ駆け抜けて行く。その後方0.3秒にロバーツが、約2秒遅れて岡田が梁ともつれ合うようにゴールを目指していた。
一日に3度、サーキットに君が代が流れ、3クラス合計9人の表彰者のうち8人までが日本人というGPレースは、今のところこの日本GPだけである。2000年4月9日は、日本人である事を誇らしく思える永遠の一日となった。
1位 | 宇井陽一 | デルビ | 41分04秒264 |
2位 | 上田 昇 | Honda | 41分12秒112 |
3位 | 東 雅雄 | Honda | 41分12秒931 |
4位 | ジーノ・ボルゾイ | アプリリア | 41分22秒887 |
5位 | エミリオ・アルツァモーラ | Honda | 41分25秒154 |
6位 | イバン・ゴイ | Honda | 41分25秒593 |
7位 | 仲城英幸 | Honda | 41分26秒971 |
8位 | アルノー・バンサン | アプリリア | 41分26秒995 |
9位 | 藤岡祐三 | Honda | 41分27秒222 |
10位 | ランディ・デ・ピュニエ | アプリリア | 41分27秒525 |
1位 | 加藤大治郎 | Honda | 41分00秒361 |
2位 | 宇川 徹 | Honda | 41分00秒490 |
3位 | 中野真矢 | ヤマハ | 41分00秒592 |
4位 | オリビエ・ジャック | ヤマハ | 41分15秒370 |
5位 | マルコ・メランドリ | アプリリア | 41分41秒686 |
6位 | アンソニー・ウェスト | Honda | 41分53秒622 |
7位 | フランコ・バッタイニ | アプリリア | 41分53秒988 |
8位 | 宮崎 敦 | アプリリア | 41分54秒170 |
9位 | 中富伸一 | Honda | 42分00秒098 |
10位 | 大崎誠之 | ヤマハ | 42分00秒610 |
1位 | 阿部典史 | ヤマハ | 45分16秒657 |
2位 | ケニー・ロバーツ | スズキ | 45分16秒936 |
3位 | 岡田忠之 | Honda | 45分18秒569 |
4位 | 青木宣篤 | スズキ | 45分18秒659 |
5位 | カルロス・チェカ | ヤマハ | 45分19秒187 |
6位 | アレックス・クリビーレ | Honda | 45分19秒335 |
7位 | アレックス・バロス | Honda | 45分20秒870 |
8位 | ジェレミー・マックウィリアムズ | アプリリア | 45分21秒559 |
9位 | ギャリー・マッコイ | ヤマハ | 45分32秒128 |
10位 | 梁 明 | スズキ | 45分32秒319 |