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日本GPの興奮。

独創技術で世界に挑んだ60年代

ロードレースの夜明け、鈴鹿サーキット誕生

日本初のレーシングコース

今から48年前の1962年9月20日、日本で初めての国際レーシングコースである鈴鹿サーキットは完成した。

鈴鹿サーキット建設は、1959年のマン島T.T.出場以来、ヨーロッパのレーシングコースを目の当たりにし、日本にも本格的なサーキット設置が急務であると痛感したHondaの初代社長・本田宗一郎の意志によるものである。

その目的は大きくふたつ。二輪および四輪製品を買ったユーザーが運転を楽しみ、その運転技術や安全への認識を向上させていく場を提供する。そして、世界に通用する人材や製品を育むために国際レベルのレースを開催し、頂点を目指して切磋琢磨する。そのためには、本格的なレーシングコースが必要不可欠であった。

レースを開催する場所といえば、浅間テストコースを代表とする未舗装のダートコース、あるいは飛行場の滑走路しかなかった当時の日本で、鈴鹿サーキットの誕生は“日本のロードレースの夜明け”だったと言ってもいい。

同時に、1960年から2年をかけた国際的レーシングコース建設のプロジェクトは、用地設定、コース設計、そして精度の高い舗装の施工など、高速走行環境における様々なノウハウを残し、この頃に相次いで完成した高速道路とともに、鈴鹿サーキットは急速に発達する日本のモータリゼーションを象徴する存在となった。

鈴鹿サーキット

1962年。グランプリの空気を呼吸する

その存在を知らしめたのが、完成直後の1962年11月3日、4日に開催された「第1回全日本選手権ロードレース大会」だ。このレースはいわば完成したサーキットの除幕イベントとして、海外から多くのGPライダーが招かれ、Honda、ヤマハ、スズキのワークスマシンが初見参した(とくに、この年のGPには出場しなかったヤマハが125、250、350ccにエントリーしている)。

それまで日本では見たことのない、世界GPを彷彿とさせる本格的なレースの実現は、本田宗一郎のマン島出場宣言から8年、マン島T.T.初挑戦から3年の時を経て、日本におけるモータースポーツが華々しく開花した瞬間だった。

この年、Hondaは前年に続いて世界GPロードレースの125と250ccのチャンピオンを奪い、この年新たに挑戦を開始した350ccでもライダー&メーカーチャンピオンに輝く快進撃を続けていた。さらに1960年からGP挑戦を始めたスズキが、この年から開催された50ccクラスでライダー&メーカーチャンピオンを獲得。ヤマハも1961年から世界GPに挑戦するなど、日本の二輪メーカーが世界GPを席巻していた。

完成したばかりの鈴鹿サーキットで開催された「第1回全日本選手権ロードレース大会」は、そんな時代状況を反映して、世界レベルのマシンと走りをひと目見ようと、2日間合計で約27万人もの大観衆が詰めかけた。当時の道路事情もあるだろうが、鈴鹿サーキットへ向かう車の列は名古屋から続いたという。

このレースでは国内ライダー=ノービスと、国際級と海外ライダー=セニアのふたクラスに分けられ、それぞれ50、125、250、350ccの計8レースが行われた。11月3日は大雨となり、一部選手の棄権や周回数の短縮などがあったものの、ノービス50/250、セニア125/350の4クラスを開催。翌4日は晴天に恵まれノービス125/350、セニア50/250の4クラスが開催された。

初めて見る高レベルの戦い

雨中のセニア125では、Hondaのトミー・ロブがチームメイトのジム・レッドマン、ルイジ・タベリ(いずれもリタイヤ)、2位となったスズキのフランク・ペリスを退けて独走優勝。以下谷口尚己、島崎貞夫、田中てい助※(以上Honda)、越野晴雄(スズキ)が続いた。
※「てい」は「木」偏に「貞」

このレースでは、スズキのヒュー・アンダーソンがこのレース直前に完成した“空冷2気筒ロータリーバルブエンジン”の試作車=RT63Xで出場。アンダーソンは7位走行中にリタイヤしたが、翌年はこのマシンを改良したRT63でライダー&メーカーチャンピオンを獲得した。以後、シーズン最後に開催された60年代の日本GPでは、翌年用のニューマシンが出場する事も大きな注目となった。 

セニア350は、公式練習にはヤマハの片山義美、本橋明泰、伊藤史朗が出走したものの、決勝は欠場。決勝はHondaワークス3台のみのレースとなり、ジム・レッドマン、北野元、ロブの順位に。

晴天下で行われたセニア50は、スズキのエルンスト・デグナーがトップを独走していた4周目に突風にあおられ転倒してしまう。以後、デグナーが転倒した立体交差手前の右コーナー・当時の第10カーブ右80Rを「デグナー(カーブ)」と呼ぶ所以になった。

デグナーの脱落後、同じスズキの市野三千雄が2位以下を大きく引き離すが、最終ラップに転倒。後続のHondaのロブと、スズキのアンダーソン、森下 勲がもつれ合うようにゴールし、ロブが優勝。アンダーソン2位、森下3位、4位にはスズキの鈴木誠一とHondaの谷口が同タイムで同着となるなど、この大会で最も盛り上がったレースとなった。また、優勝したロブは新型の50cc2気筒2バルブのRC112を走らせている。

セニア250はGP250&350のチャンピオンであるHondaのレッドマンが独走。2位のロブに約23秒の大差を付けた余裕の勝利の後方では、ロブとデビュー間もないヤマハのRD56を駆る伊藤史朗が激しい2位争いを展開し、観客を大いに沸かせた。

ちなみに250でレッドマンが記録した2分36秒4が、鈴鹿サーキットにおける記念すべきコースレコード第1号となった。翌1963年にヤマハの伊藤史朗が2分31秒4でこの記録を破り、1964年にはレッドマンが伊藤の記録を0秒1更新。1965年にはHondaに乗るマイク・ヘイルウッドが2分28秒9という圧倒的な記録に塗り替える(この記録は1972年にCB500改に乗る隅谷守男が2分28秒7を記録するまで、7年間に渡って鈴鹿の2輪コースレコードとなった)など、1960年代における鈴鹿のコースレコードは、日本の二輪メーカーの激しい戦いを象徴している。

これにくわえ、先に述べた翌シーズン用のニューマシンの登場、そして何よりも「日本ではなく、まるで海外にいるようだ」と観客が感嘆するほどサーキットに漂った“世界GPの空気”は、以後開催される日本GPへ大きな注目を集める事となった。

第1回全日本選手権ロードレース大会・結果

■セニア50cc(10周)11月4日
1位 トミー・ロブ Honda 31分01秒4
2位 ヒュー・アンダーソン スズキ 31分01秒6
3位 森下 勲 スズキ 31分01秒9
4位 鈴木 誠一 スズキ 31分02秒3
5位 谷口 尚己 Honda 31分02秒3
6位 田中 てい助 Honda 31分22秒1

最高ラップ 3分01秒9 市野三千雄 スズキ


■セニア125cc(17周)11月3日
1位 トミー・ロブ Honda 52分09秒5
2位 フランク・ペリス スズキ 52分42秒5
3位 谷口 尚己 Honda 52分53秒4
4位 島崎 貞夫 Honda 52分59秒9
5位 田中 てい助 Honda 53分36秒1
6位 越野 晴雄 スズキ 53分36秒9

最高ラップ 3分00秒6 フランク・ペリス スズキ


■セニア250cc(20周)11月4日
1位 ジム・レッドマン Honda 53分01秒0
2位 トミー・ロブ Honda 53分24秒3
3位 伊藤 史朗 ヤマハ 53分25秒2
4位 田中 てい助  Honda 54分43秒4
5位 桂田 吉雄 Honda 1周遅れ
6位 粕谷 勇 Honda 1周遅れ

最高ラップ 2分36秒4 ジム・レッドマン Honda


■セニア350cc(5周)11月3日 ※豪雨により周回数短縮
1位 ジム・レッドマン Honda 15分22秒5
2位 北野 元 Honda 15分23秒2
3位 トミー・ロブ Honda 15分23秒3

最高ラップ 2分36秒4 ジム・レッドマン Honda

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