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鈴鹿サーキット50周年アニバーサリーデー

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鈴鹿サーキット50年の足跡とそこに懸けた想いに迫る

9月1日、2日 鈴鹿サーキット

今でこそ多くのレースやイベントが開催され、世界的にもメジャーなサーキットになりましたが、誕生から現在に至るまでには、さまざまなドラマがありました

今でこそ多くのレースやイベントが開催され、世界的にもメジャーなサーキットになりましたが、
誕生から現在に至るまでには、さまざまなドラマがありました

1962年の誕生から、今年で50年という節目を迎えた鈴鹿サーキット。

その存在は、日本のモータースポーツ史に大きな影響を与えてきました。鈴鹿サーキットが持つ魅力を少しでも知ってもらうため、「鈴鹿サーキット50周年記念企画」として、前後半に分けてお伝えしています。

前回の第14回「鈴鹿サーキット50周年記念企画<前半>」では、9月1日(土)、2日(日)に開催される、「鈴鹿サーキット50周年アニバーサリーデー」を特集。2日間にわたって実施される、マシンの展示や走行、往年の名選手によるレースやトークショー、また遊園地「モートピア」で行われるアトラクションイベントの一部をご紹介しました。

後半の今回は、50年前の開場から、これまで数々のドラマを生み出してきた鈴鹿サーキットの今に至る歴史を中心にをひもといていきます。

また、下部の鈴鹿サーキット公式ホームページからは、「鈴鹿サーキット50周年アニバーサリーデー」当日の入場無料招待券がダウンロードでき、1枚につき5人までが無料で入場できます。

鈴鹿サーキット50周年アニバーサリーデー

鈴鹿サーキット50周年アニバーサリーデー
入場無料招待券ダウンロードはこちらから。そのほか、当日サーキットで開催されるモータースポーツイベントや、遊園地「モートピア」で行われるイベント情報も確認できます。

完成目前の鈴鹿サーキット。実際の工事現場では十分な図面もなく、その場で仕様を決めながら造られました

完成目前の鈴鹿サーキット。実際の工事現場では十分な図面もなく、その場で仕様を決めながら造られました

今でこそ、高低差のあるテクニカルなサーキットとして知られる鈴鹿サーキットですが、現在の形にたどりついたのには意外な理由があります。

「レースをやらなければ車はよくならない」

Honda創業者の一人である本田宗一郎の一言がスタートでした。

1960年代当時、先進国の自動車産業に勝つためには、国産自動車の品質向上が不可欠であり、そのためには最先端の自動車技術が集まるレースを開催することが絶対に必要だ。そこから、日本初の本格的な国際レーシングコースの建設がはじまりました。

高速道路でさえ開通する前の時代。自動車の性能も普及率も、今では考えられないほど低いものでした。しかし、近い将来、必ず車が主役の社会になるという先見を持った決断でした。

当初、建設の候補地には、水田を含む平坦な場所が選ばれていました。しかし、「大切な米を作る田んぼをつぶしてはいけない」という指示から、水田を避け、あえて森林を切り拓いたのが今の鈴鹿サーキットです。こんな事情もあり、世界でも珍しい立体交差のある8の字型の起伏の激しいテクニカルコースが完成しました。

初めてのレースが行われた当時、観客席とコースの間に十分な柵がなく、コースを横切る人もいたそうです

初めてのレースが行われた当時、観客席とコースの間に十分な柵がなく、コースを横切る人もいたそうです

完成から2カ月後の1962年11月、オープニングレースとして、「第1回全日本選手権ロードレース大会」が、2日間にわたって開催されました。

海外からも多くの一流ライダーが招かれた日本初の本格的なオートバイレースに、集まった観客からは熱い声援が送られました。

このレースでは、今にもつながる一つのエピソードが生まれました。

トップを独走していたドイツ人ライダーのエルンスト・デグナーが、立体交差手前のカーブでまさかの転倒。当時、デグナーは世界最高峰の舞台で活躍しており、その名もよく知られていました。そんな彼が転倒したインパクトは大きく、そのカーブは彼の名前を取り、「デグナーカーブ」と呼ばれるようになりました。

オープニングの2日間で、合わせて8つのレースが行われました。世界レベルのレースとサーキットは、大きな注目を集め、翌年開催される「ロードレース世界選手権」につながっていきます。

40年前から人気の「でんでんむし」。写真左が初代、右が現在活躍中の3代目

40年前から人気の「でんでんむし」。写真左が初代、右が現在活躍中の3代目

50年の歳月を歩んできたのは、サーキットだけではありません。敷地内に隣接する遊園地も同じです。

遊園地建設の立役者は、本田宗一郎と同じくHonda創業者の一人である、藤澤武夫です。

藤澤は、子どもたちに早くから自動車に慣れ親しんでもらいたい、自分で運転できるアトラクションに触れてもらい、車やバイクのファンを増やしたい、という考えを持っていました。そこで、サーキット建設にあたり、レースを楽しむだけではなく、自動車遊園地も開設するべきだ、との考えがありました。

その想いが実り、1963年1月、鈴鹿サーキットに自動車遊園地が誕生しました。乗りものはすべてHondaの汎用エンジンを搭載。Hondaスーパーカブのエンジンを使った「ゴーカート」や、当時のF1にそっくりな車で国際レーシングコースを走る「フォーミュラ・4」など、本格的なエンジン付きの乗りものは珍しく、その魅力に子どもはもちろん、大人も夢中になりました。

今年で41回目を迎えた「インターナショナル ポッカ 1000km」の前身である、「鈴鹿1000km自動車レース」

今年で41回目を迎えた「インターナショナル ポッカ 1000km」の前身である、「鈴鹿1000km自動車レース」

鈴鹿サーキット誕生から1年後、国産自動車の発展に大きな影響を与えた一つのレースが開催されました。

それが、「第1回日本グランプリ自動車レース大会」。

ロータス、ジャガー、フェラーリ、ポルシェなど、国外の名だたるメーカー車も参戦。これら外国車に、国産自動車は惨敗してしまいました。国内の各メーカーは、タイヤすら満足なものが用意できず、わずか4周で全て周回遅れになってしまい、日本の自動車産業の未熟さを痛感させられる出来事でした。

しかし、この経験に国内メーカーは奮起し、外国車に勝つためにはどうすればいいか、試行錯誤が始まります。

そして、マイカー元年といわれた1966年、「鈴鹿1000km耐久レース」が開催されました。長時間にわたって自動車を走行させるには、自動車そのものの性能を向上させなければならず、しかもレースに勝つために速さも要求されます。鈴鹿1000kmは各自動車メーカーの絶好の実験場になりました。レースを通してメーカー同士が競い合った結果、国産車の性能は徐々に向上していきました。

外国車への挑戦と惨敗、それをバネに国内で切磋琢磨した経験が、今の日本の自動車業界に与えた影響は決して少なくありません。

「鈴鹿8時間耐久ロードレース」のル・マン式スタートは今も昔も変わりません

「鈴鹿8時間耐久ロードレース」のル・マン式スタートは今も昔も変わりません

今年で35回目を迎えた真夏の祭典、「鈴鹿8時間耐久ロードレース」。多くの名ドライバーが世界への登竜門として、羽ばたいていくきっかけになりました。

1970年代後半、2輪ロードレースは、4輪に比べて盛り上がりを欠いていました。その発展のために、ヨーロッパのチャンピオンチームも参加できるような2輪耐久レースを実施し、さらにオートバイファンが日本中から集まる一大イベントを開催したいという想いから、鈴鹿8耐はスタートしました。

ライダーの交代や、ピットでの駆け引きなど、スプリントレースにはない、耐久レースの魅力にあふれたレース。第1回では、出走43台中、完走したのは27台。ヨーロッパの強豪にまじり、日本のプライベーターが優勝するというドラマもありました。観客動員数は2日間でのべ約9万8000人。当時のモータースポーツイベントとしては圧倒的な数字を記録し、興行面でも大成功を収めました。

1978年以降は毎年開催され、80年からは「世界耐久選手権シリーズ」の一戦として開催されるようになりました。今年で35回目を数え、日本の名物レースの一つとなった鈴鹿8耐は、多くのファンに支持されています。

日本中が注目した、第1回F1日本グランプリ決勝レーススタートの瞬間

日本中が注目した、第1回F1日本グランプリ決勝レーススタートの瞬間

F1が日本で初めて開催されたのは、1987年の鈴鹿サーキットでした。

1980年代初め頃から、F1招致に向けて動いてきた鈴鹿サーキットは、コースの改修やコントロールタワーの新設、ピットの増設などの大改修によって、世界標準と言われるまでのレーシングコースとなりました。

さまざまな努力を経て、1987年11月、ついにF1日本グランプリが実現。

伝説のドライバー、アイルトン・セナや、セナと共に「セナ・プロスト時代」をつくったアラン・プロスト、日本人初のF1ドライバー中嶋悟ら、名ドライバーが参戦し、決勝レースでは、セナ(ロータス・ホンダ)が2位フィニッシュ。さらに同じチームの中嶋悟が6位入賞を果たし、Honda勢の活躍と日本人ドライバーの健闘で、詰めかけた11万2000人の大観衆は沸き返りました。

鈴鹿サーキットと共にその歴史を歩んできたマスコットキャラクターの「コチラ」

鈴鹿サーキットと共にその歴史を歩んできたマスコットキャラクターの「コチラ」

ビッグレースの開催も実現し、鈴鹿サーキットが世界へ向けてその存在感を高めていた1979年。マスコットキャラクター、コチラは誕生しました。

愛くるしい存在のコチラの産みの親は漫画界の巨匠、手塚治虫さんです。当時多くの連載を抱えていた手塚さんに、キャラクターデザインを依頼しましたが、手塚さんが非常に多忙だったことや、着ぐるみとして動けて、どこから見てもかわいいデザインという難しい前提条件もあり、依頼からほぼ1年後の79年10月、コチラはようやく生まれました。

プロ野球球団のキャラクターをはじめ、手塚さんの手からは数多くのキャラクターが生まれましたが、コチラはその中でも特に長い期間にわたり、活躍を続けているキャラクターのひとつです。

松谷孝征手塚プロ社長(左)、アトム(右)の歓迎を受けるコチラ

松谷孝征手塚プロ社長(左)、アトム(右)の歓迎を受けるコチラ

誕生から33年を迎えたコチラですが、鈴鹿50周年を迎えるにあたり、8月下旬、初めて生まれ故郷とも言える手塚プロダクションを訪問しました。

この日は、玄関であのアトムと手塚プロダクション社長の松谷孝征さんをはじめ多くのスタッフの皆さんがコチラを出迎えてくれました。中へ通されると、手塚プロダクション社長の松谷孝征さんにその生いたちを聞いたそうです。

ところで、コチラはバイクレースの好きな宇宙恐竜という設定です。生まれた当時は1人でしたが、1999年には生誕20周年を迎え、それを機に仲間が増えました。一般公募から選ばれた、チララ、バット、プート、ピララが加わり、現在はコチラファミリーとしてがんばっています。鈴鹿サーキットにある遊園地「モートピア」に行けば、いつでも会えますので、ぜひ遊びに行ってみてください。

レーシングコースを臨む観覧車「サーキットホイール」をバックに開催されるレース

レーシングコースを臨む観覧車「サーキットホイール」をバックに開催されるレース

Honda創業者の本田宗一郎、藤澤武夫をはじめとした、関係者の想いを具現化した鈴鹿サーキット。

1962年9月の開場以来、さまざまな紆余曲折を経て、今年で50周年を迎えました。 2009年にはレーシングコースのリニューアル工事を終え、節目の年を迎えた今、鈴鹿サーキットは次の50年に向け、新たなスタートを切ります。

「鈴鹿サーキット50周年記念企画<前半>」でもご紹介しましたが、9月1(土)、2(日)に、「鈴鹿サーキット50周年アニバーサーリーデー」が開催されます。この2日間は、鈴鹿サーキットの歴史を彩ったマシンの展示や、往年の名ドライバーによるレース、トークショーなどを実施予定。遊園地「モートピア」では、アニバーサリーデー限定イベントなども開催されます。

鈴鹿サーキット50周年アニバーサリーデー

鈴鹿サーキット50周年アニバーサリーデー
入場無料招待券ダウンロードはこちらから。そのほか、当日サーキットで開催されるモータースポーツイベントや、遊園地「モートピア」で行われるイベント情報も確認できます。