そして翌日の午前中は、深い霧がサーキットをすっぽりと包んだ。このままでは緊急時にケガ人を搬送するヘリコプターが飛べないため、午前中のフリー走行は15分間の延期が2回繰り返され、午前11時30分からスタート。全車が、深溝のレインタイヤを履いての走行だ。しかし霧は深くなるばかりで、わずか4分後には赤旗中断。セッションは、そのまま終了した。琢磨はわずか2周の、チェック走行に出ていっただけ。ぶっつけ本番で、予選に臨むことになった。初日にトラブルに見舞われ、満足な周回ができなかった琢磨にとっては、手痛いハプニングになってしまった。
午後になっても小雨が降り続き、霧もなかなか晴れようとしない。とはいえウエット走行は、琢磨の得意とするところだ。実際、予選が始まってすぐのアタックでは、いきなりトップ10内のタイムを叩き出した。しかし終盤、ニュータイヤに履き替えてからは、まったくペースが伸びなかった。タイヤに熱が入らず、グリップしないのだ。周回のたびにズルズルと順位が落ちて行き、21番手に終わった。
「午前中のフリー走行がほとんど走れなかったから、予選はウエット路面ぶっつけ本番という状況だった。それは逆に、僕らにとってはチャンスだと思ったんですけどね…。」
まさかの結果に、予選後の琢磨はさすがに重い口調だった。
「最後のアタックのときは、雨はほぼ止んで路面コンディションはよくなってるはずだった。なのに、逆に遅い。レインタイヤは新品の場合、熱が入りにくいんです。だから結果論になりますけど、ニュータイヤに交換せずに、そのまま走り続けた方がよかったかもしれません。でも明日ももし雨なら、何とか勝負ができるはずです。１台１台、抜いて行くしかないですね。」
● 琢磨は必ず、期待に応えてくれる。
決勝当日も、朝から雨。それも前日以上の雨量である。早くから観客席を埋めたファンたちも、ずぶ濡れのまま琢磨に声援を送る。
午後1時半。コース路面は依然として厚い水膜に覆われ、危険を避けるためにセーフティカー先導によるローリングスタートが採用された。それでも路面状況は好転せず、延々とスロー走行が続く。浅溝のレインタイヤを履いていたフェラーリ勢2台が、とても周回を続けられずに2，3周目に次々とピットイン。これで琢磨は17番手に上がる。その後18周目にピットに入り、ゴールまで周回可能な量のガソリンを積んだ。このままじりじりと、ポジションを上げていく作戦だ。そしてその1周後に、レースが始まった。
「前は水しぶきで、完全に真っ白。何も見えませんでした。」気がつくと、1コーナーの減速地点のはるか手前で、目の前にウィリアムズマシンのリアが迫っていた。よけきれずに、追突。これでノーズを破損し、緊急ピットインを余儀なくされる。さらにこのときに履いた新品の深溝タイヤが、すぐに性能劣化してしまったこともあって、ペースはなかなか伸びない。
42周目。タイトルを争うフェルナンド・アロンソ（マクラーレン）がクラッシュして、再びセーフティカーが導入される。さらに46周目。表彰台圏内を走っていたマーク・ウェーバー(レッドブル)とセバスチャン・フェテル(トロロッソ)がスロー走行中に接触し、両者リタイアを喫する。大荒れのレースの中、琢磨は辛抱強く走り続けるが、この時点で18番手と苦しい展開だ。
それでも3セット目のタイヤに履き替えたレース後半からは、ようやく本来の速さを発揮し始めた。地道に走り続け、少しずつ順位を上げていく。しかしいかんせん、最初の遅れが痛かった。結局、完走15台中の最下位でチェッカーを受けた。
「これだけ厳しい条件でレースをしたのは、初めてかもしれません。」ゴール後、ほぼ雨の止んだパドックで、琢磨は淡々と戦いを振り返った。
「セーフティカー先導でゆっくり直線を走ってる最中でも、アクアプレーニング(水の膜に乗って、マシンが操縦不能になること)でまっすぐ走れない。長年レースをやっていて、初めて恐いと思いました。真横は見えるけど、前はまったく見えない。みんな、前のクルマはトラブルがない限り全開加速しているという前提で、アクセルを踏んでいる。だから今回のウィリアムズのように1コーナーのはるか手前で減速していたら、避けようはない。あれだけのダメージで済んで、むしろ幸運でした。」
琢磨といえば2001年のイギリスGPの前座だったF3で、雨の中ポールポジションを奪取。さらにレースでもぶっちぎりの勝利を遂げたことが、いまだに鮮烈な記憶として残っている。本来、雨の走りは大得意のはず。それだけにこの結果は、不本意だったに違いない。
しかし琢磨はそれ以上に、「シーズンで一番大事なレース」と自ら位置付ける母国GPで、ファンたちに本来の彼らしい走りを披露できなかったことを悔しがっていた。
「たくさんのファンが熱心に応援してくれたのは、本当にうれしかった。水しぶきをもろに浴びながらでも、皆さんの姿はちゃんと見えてましたよ。冷たい雨の中、何時間もじっと坐って観戦してくれた。そのことに、ただただ感動しています。彼らの期待に応えられなかったことが、今は残念でなりません。」
でも琢磨はこれまでいつも、そんな無念や悔しさをバネにして、必ず借りを返してきた。1年後の富士スピードウェイで、僕たちは必ず佐藤琢磨に熱狂することができるはずだ。2002年と2003年の鈴鹿が、そうだったように。
