世界のクルマを鍛えた自動車評論家[小林 彰太郎氏 追悼]

日本で自動車評論の道を拓いた世界屈指のモータージャーナリストであった小林 彰太郎氏が永眠された。2013年10月28日、享年83歳。

常日頃口にしていた「生涯現役」という願望の通り、亡くなられる前日までモータージャーナリストとして仕事をされていた小林氏の突然の訃報に世界の自動車関係者が驚き悲しむとともに国内は言うに及ばず、欧米の名門自動車メーカーの名だたる関係者からもたくさんの哀悼の辞が寄せられた。

小林氏は、真のバイヤーズガイドと言える「CARグラフィック」(現Car Graphic)を1962年に創刊。深い見識に裏付けられた自動車評論と科学的なテストに基づく的確な評価を実行し、それまでの日本にはなかった自動車評価の指標をつくり理想的な自動車雑誌をつくり上げることに生涯を費やされた。その60年におよぶモータージャーナリスト活動を通して、小林氏は世界の自動車メーカーから信頼され尊敬される屈指のモータージャーナリストのひとりになられた。

現在、日本の自動車メーカーでクルマづくりに携わる人の中にもかつて自動車に憧れ「CARグラフィック」を読んで育ったという人が少なからず存在する。彼らは「Car Graphic」で真のクルマの評価というものを学び、やがてクルマづくりに携わった。そして、自らつくったクルマが再び「Car Graphic」で評価されるという切磋琢磨を繰り返す。彼らのそうした弛まない努力が、世界をリードする今日の日本車を育て上げる一因となった。つまり、小林氏の自動車評論が、現在の日本の自動車を世界トップレベルへ引き上げるために大きな影響を与えたということは何人にも否定できないであろう。

その、偉大なるモータージャーナリスト、小林 彰太郎氏が日本の自動車メーカーのなかでも特別な想いと好意を寄せていたのがHondaであった。

四輪車開発という新たな挑戦に立ち向かうにあたりHondaは、セダンなど普通のクルマではなく、革新的なスポーツカーの開発を選んだ。同時期の四輪レース初参戦にあたっては、いきなり世界最高峰のF1をめざした。その奇想天外かつ独創的な発想とそれを実現する技術力、そして何よりも失敗を恐れず果敢に新しいものにチャレンジする、そのスピリットを小林氏は愛されたのだった。

当時の自動車先進国の欧米とはまったく異なるアプローチを行いグランプリエンジンのミニチュアのような、時計のように精密なエンジンを搭載しながら手に届きやすい価格まで実現した高性能スポーツカー、そして世界に誇れる初めての日本車であるHonda S600を小林氏は即座に購入。ヨーロッパへ送り、およそ2ヵ月間に約12,000kmを走破するという大冒険旅行を敢行された。イギリスに始まって、フランス、ドイツ、スイス、ベルギー、イタリアと縦横無尽に駆け巡る軽快でチャーミングなHonda S600は、行く先々で欧州の人々と自動車関係者を魅了し、四輪メーカーとしてのHondaの名を広く知らしめた。

グランプリにも参戦するレーシング・コンストラクターであり、名門スポーツカーメーカーである英国のロータスを訪ねた際には、S600を試乗した御大コーリン・チャップマン氏をして、その革新的な技術と性能の高さに感激せしめた。また、レーシング・コンストラクターである英国のブラバムを訪ねて、のちにF2でHondaエンジンを搭載して勝利を重ねることとなるジャック・ブラバム氏と共同創業者であるロン・トーラナック氏(レーシングカー・デザイナー)にS600を紹介した。ドイツでは、901が生産に入る直前のポルシェの工場を訪ね広報部長でレース監督であったフォン・ハンシュタイン氏をS600に乗せ、数々のヒルクライムやタルガ・フローリオで優勝したことのある名レーシングドライバー、エドガー・バルト氏にも会って親交を深めた。

そして小林氏は、旅の本来の目的である、画期的かつ歴史的なHondaのF1デビューの現場に立ち会い、取材するため、唯一の日本人モータージャーナリストとして世界屈指のグランプリコースであるドイツのニュルブルクリンクを訪れた。

レース当日、観衆の前にHondaのグランプリマシンRA271が現れると、想像をはるかに越えるHondaのチャレンジスピリットに対し、総立ちとなった観衆から大歓声が沸き起こった。それは、戦後初めて、日本の技術とスピリットが世界最高峰の舞台で賞賛を受けた瞬間だった。後日、小林氏は、「その時初めて日本人として生まれてきたことを誇りに思った」と記されている。

小林 彰太郎氏と創始者である本田 宗一郎との初対面は、S500の発売時だった。今では当たり前となっているモータージャーナリスト向けの新車試乗会をS500の発売にあたりHondaが日本で初めて開催した際、荒川にあったHondaのテストコースで小林氏は、本田氏から直接S500のレクチャーを受けている。以来、小林氏は本田氏の人柄に感銘を受け、同氏が亡くなるまでおよそ30年、公私にわたって親しく付き合われた。

その本田 宗一郎率いるHondaは、サーキットと呼べるものがなかった日本に1963年、欧州に負けない世界第一級の鈴鹿サーキットをつくった。小林氏は、「日本でついに本格的な自動車レースができるのだ」と喜びに身を震わせた。そして、鈴鹿サーキットが誕生したおかげで、レースでクルマが鍛えられHonda車だけでなく、国内全メーカーのクルマが発展したのは、「まさに宗一郎さんのおかげである。したがって日本のモータリゼーションは、プレ鈴鹿とポスト鈴鹿として評価される」と書き残されている。

古くからのクルマの歴史を知り、深い見識を持つ氏の言葉は、クルマの楽しさと、クルマはかくあるべきということをすべての人に教えてくれた。

そんな小林氏を日本が失ったことは、大きな損失である。

氏が長きにわたり実践されてきたモータージャーナリズムに学ぶべきことは、———走る・曲がる・止まるという、自動車が本来持つべき当たり前のことを当たり前にできるかを根本とする自動車に対する普遍的な尺度と、温故知新の姿勢であろう。

それを、つくる側も使う側もしっかりと持ち続け、モータリングライフを深く楽しみ続けることではないだろうか。

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