追悼 ジョン・ラム
愛すべきクルマバカ
文・高平 高輝 氏
- 高平 高輝(たかひら こうき)
- モータージャーナリスト。二玄社に所属し、カーグラフィック(CG)副編集長、NAVI編集長、CG編集委員を経て、2010年よりフリーランスとして活動。CG編集部のときから、ジョン・ラム氏と長く関わってきた。NSXに関するさまざまな記事をHondaが制作するNSX Pressに寄稿するなど、Hondaとの関わりも深い。
原稿はいつも必ず期日通りに届いた。
いや、常に余裕を持って送られてきた。分量は注文通り、中身は期待以上、
読みやすく正確に、一文字の間違いも修正もなく完璧にタイプしてあった。
今から30年以上も前、新米編集者だった私にも、カーグラフィックの
海外特約通信員の英文原稿の翻訳が少しずつ回ってくるようになった頃の話である。
もちろん、PCやEメールが普及するずっと前のことで、原稿はエアメールで、
その後はファクシミリで送られてきた。使う機会は減っていたがテレックスもまだ現役だった。
そういえば出張中のイタリアからテレックスで原稿を送って来た上司がいて、
ローマ字から打ち直したこともあったっけ。いったいあの通信料はいくらかかったんだろうか?
既にジョン・ラムはポール・フレールやジャビー・クロンバックと並ぶ
スター・ライターのひとりであり、いち読者の頃から必ず読んでいた「From USA」の
生原稿に誰よりも早く接する幸せに預かっていたのである。
人となりは原稿を見れば一目瞭然だ。
ポール・フレールのタイプ原稿には手書きで校正が入っていることがあったし、
ジャビー・クロンバックもそうだった。もちろん、それは最後の最後まで
推敲を重ねているという証拠なのだが、ジョン・ラムの原稿は、修正が書き加えられていなかった。
つまりページごと打ち直していると思われた。
今に至るまで、彼ほど律儀で几帳面で生真面目でハードワーカーのアメリカ人を知らない。
ジョン・ラムの送ってくる原稿は、いつも変わらず美しく面白く、改めて確認したら
実に37年間、ただの一度も遅れることはなかった。つい先日、病に倒れるまでは。
最初に会ったのがいつ、どこでだったのかは覚えていない。
80年代末の東京モーターショーかフランクフルトか、あるいはヨーロッパのどこかで開催された
国際試乗会か、ミッレミリアのようなクラシックイベントだったか、
何しろジョンはあらゆる重要な催しにはほとんど顔を出していた。
それまでのやり取りから、お高くとまった人物でないことは想像していたけれど、
実際には思った以上に気さくであけっぴろげでまったく偉そうではないことに驚いた。
大男が目の前に立ったと思ったら、大きな手と一緒に野太い声が上の方から降ってきた。
「ハイ、アイム・ジョン・ラム」
現場ではいつも忙しそうだったから、通りすがりにウィンクするだけということも多かった。
だが、必要な時にはジョンを見かけなかったかい?と
顔見知りの誰かに聞けば必ず答えが返ってきた。一時は米国の4大自動車誌すべてに寄稿し、
無数の書籍を著したジョンは、その世界では超有名人であり、
世界の自動車メーカーにとっても重要人物だったことは間違いない。
肩書で説明されることを嫌うだろうけれども、ペブルビーチの審査委員や
モンテレーヒストリックカーミーティングの実行委員を長く務めたうえに、
その他もろもろの要職を歴任してきた。何と言っても知識経験豊富で、
とてつもなく顔も広いのだから当然と言えば当然だ。
こう言うとやはり顔をしかめるだろうが、ルカ・ディ・モンテゼーモロだってあちらから声をかけてくるし、
現在のフォードCEOのジム・ファーレイは、ジョンのせいで自動車業界に入ったと公言している。
ジョンが長年所有していたランチア・アウレリアB20を譲り受けたのは
そのジム・ファーレイだ。何年もかけてレストアを仕上げた後に、
ジョンとその前のオーナーとジムが三人連れ立って一緒にペブルビーチに出かけたという。
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