回想ジョン・ラム
We miss you, John
文・写真提供 河村 昭 氏
- 河村 昭(かわむら あきら)
- コーディネーター・翻訳家。二玄社に所属し、カーグラフィック(CG)編集部およびNAVI編集部と海外の自動車メーカー、カロッツェリア、自動車メディア、デザイナー、モータージャーナリストとをつなぐ窓口として、手配・交渉の一切を遂行。海外から届いた記事の翻訳や英訳も担当。2010年に株式会社ラムダを設立し、カーグラフィック誌の生みの親、故小林彰太郎氏のマネジメントを行った。
10月5日、このSPORT DRIVE WEBにも、折に触れて寄稿、
貢献していたアメリカ人自動車フォトジャーナリストのジョン・ラムが亡くなった。
享年76歳。
ドナルド・トランプの2つ上、ジョー・バイデンの2つ下だったから、まだまだ活躍できたはずだ。
惜しい。
哀しいとか寂しいとかより、残念でならない。
カメラ小僧にしてクルマ少年
アメリカ中西部の田舎、ウィスコンシンで生まれ育ったジョン・ラムは、1950年代の後半から1960年代の中盤にかけて青春を謳歌した世代で、当時はアメ車全盛時代、文字通り、ジョージ・ルーカスのつくった伝説的映画、「アメリカン・グラフィティ」そのものの世界をエンジョイしたヤングマンだった。
ご多聞に漏れず、非常にわかりやすいキャラクターで、大のカメラ好き、大のモーターレーシング好き、スポーツカー好きの、典型的な「カメラ小僧&クルマ少年」で、エルクハートレイクで行われたロードレース「SCCAスポーツカーレース」にカメラを担いで足しげく通っていた。
そしてウィスコンシン大学に進んでからは、自動車メディアの世界で生きて行こうと決心し、ジャーナリズム科を専攻、勉学とクルマ写真撮影にいそしんでいた。
しかし、卒業を控えたある日、召集令状が届き、ベトナムでの兵役を務めることになった。幸いにも、彼のことをよく理解してくれた上官に巡り会えたことによって、最前線で銃を持って戦うことなく、報道担当の陸軍隊員として1年間の任務を終えた。むろん、戦時下では、記事も写真もすべて自分一人で賄わなければならず、その後の彼の、「ライター兼カメラマン」という世界でも稀有な存在の「フォトジャーナリスト」としてのスタイルはそこで培ったものだった。
もっとも、「好きこそものの上手なれ」で、彼にとっては文字通り、ライターもカメラマンも「天職」で、半世紀以上に及ぶキャリアを通じて、思う存分、才能を発揮できた幸せ者だったと言えよう。
およそアメリカ人らしからぬアメリカ人
しかし、かといって、ジョン・ラムが真のプロフォトジャーナリストだったかと言われれば、断じてそうではないと答えるだろう。
プロフェッショナリズムが若干欠けていたと思うのは私だけではないはずだ。
そこでは、クルマが好きで、好きでたまらないカメラ小僧でクルマ少年なジョン・ラムが再び顔を出す。
彼のフォトジャーナリストとしてのキャリアは、どちらかと言えば、カメラマンのほうにウェイトが置かれていたと思う。
彼とともに仕事をした、多くの人が感じたに違いないが、実態はクルマが好きで好きで仕方がないカメラ小僧で、無我夢中、熱中して写真を撮りまくるのが常だ。好きなクルマに出会うと、何もかも忘れて、夢中でそのクルマの写真を撮りまくる。
一方で、自動車やレース界のヒーローやレジェンドが大好きで、そばにいたくてたまらないクルマ少年で、F1でチャンピオンになり、ル・マンで優勝したフィル・ヒルや、ル・マンで優勝したポール・フレール、あるいはダン・ガーニーといった、レーシング界のレジェンドたちと仕事をするときには、いちレースファンの少年に戻って、まとわりついて離れない。取材撮影の合間に、レースでのエピソードや裏話を聞きたがる。
しかし、とにかくエネルギッシュな「カメラマン」であり、「記者」で、仕事をしている間中、休むことなく、活発に動き回わり、しっかりと、ちゃんと、そしてほぼいつも我々の想定するレベル以上の素晴らしい仕事をしてくれた。
目と手と足さえ丈夫であれば、彼の頭の中にリタイアという言葉は浮かんでこなかったのではないだろうか。
人柄?
およそアメリカ人らしからぬアメリカ人だった。
人懐こいのと、喋り出したら止まらないことと、魚が苦手で肉が大好きだったということを除いて、我々の知るステレオタイプなアメリカ人とは真逆な人間性だった。
几帳面、バカ真面目、キチンとしている、ギャグが言えず、シャレやジョークが下手で面白くない(笑)、決して仲間をいじったり、からかったりしない(できない)。
本当に誠実な、公私ともに信頼のおける人物だった。
その親しみやすい人柄とともに皆から愛された。
しかし、大好きな赤ワインを片手に肉を食べているときも、早口で喋りまくっていて、とどまることをしらなかった(笑)。
Hondaとの縁
【鈴鹿】
ジョン・ラムが初めて日本を訪れたのは、1981年、米「Road & Track」誌の企画で、 F1チャンピオンのフィル・ヒルとともに鈴鹿サーキットでHonda RA272に試乗、取材するためだった。
鈴鹿は彼の大のお気に入りで、訪ねるたびにはしゃいでいた。好きで好きでたまらないらしく、あらゆるアングルから、写真を撮りまくっていた。
また、2005年に鈴鹿で開催された「NSX Fiesta」には、ゲストとして招待されていたにもかかわらず、ゲストという意識は彼の頭からは完全に抜け落ちていて、ストレートに並んだNSXや、パドックやピットに置かれたNSXを、無我夢中で隅から隅まで撮影していて、トークショーの出番が来て、無理やり引き離さなければならないほどだった。
イベント中に夢中で写真を撮っていると、はるばるアメリカから来て参加していたNSXオーナーに取り囲まれて、「ジョン・ラムだよね?」、「一緒に写真いいですか?」、「サインください」って、せがまれると、スターではない(スターだと思っていない)ジョン・ラムという男は、戸惑って、おろおろしている。本当にC調なアメリカ人らしからぬ奴だ(愛情をこめて)。
その後で、鈴鹿をNSXで周回した後の興奮ぶりは言うまでもない。
1993年の10月、東京モーターショーの取材が終わった翌日、プライベートで、彼と2人で鈴鹿のF1を観戦しに行った。
アイルトン・セナにとっての鈴鹿における最後のレースで、彼は見事に優勝をかざった。
最終コーナーやシケインが見渡せるC席で、最終コーナーを通り越し、シケインを駆け抜けて、ストレートでフル加速するF1マシンを観ながら、望遠レンズで写真を撮りまくるアメリカ人レース少年は、鈴鹿で至福の1日を過ごしたのだった。
蛇足ながら、東京モーターショーと言えば、彼の大好きなモーターショーのひとつで、取材に来るのを毎回楽しみにしていた。特に、80年代、90年代の東京モーターショーは、来日を心待ちにするほどだった。
「日本のモーターショーには、まるでアニメの世界から現れたような、非現実的で、絶対生産化されることはないだろうと思われる、奇想天外、珍妙ながらとてもユニークな発想のショーカーやコンセプトカーが並んでいて、とても面白く、撮っても、撮っても、時間が足りないほどだった」と語っていた。
その典型とも言えるHondaのブースなどは、彼にとっての格好の取材撮影対象で、足しげく通っていたものだった。
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