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それは交通安全教育という概念もないところから始まった

若者への安全教育の大切さを語るスタット

鈴鹿の安全運転講習所での白バイ訓練の様子。
オフロードコースを使用した訓練もあった。

本格的な設備を持つポーターラーム店に併設された
トレーニングセンター

白バイ隊員の運転技術向上の目標となるべく、1969年から全国白バイ安全運転競技大会が行われるようになった。

日本の自動車保有台数がまもなく2000万台に届こうとしていた1960年代末、交通事故件数も増加の一途をたどり、後に『第一次交通戦争』とも言われるピークに達しようとしていました。
その少し前、1960年代半ばから、Hondaでは安全運転教育の取り組みが始まっていました。それは鈴鹿の安全運転講習所(現 鈴鹿サーキット交通教育センター)での白バイ隊員の訓練。交通安全教育という概念すらまだない時代、訓練のためには試行錯誤の中から独自のノウハウを構築していくしかありませんでした。それはHondaにとってだけでなく、日本にとっても交通安全教育の始まりだったと言っても過言ではないでしょう。
鈴鹿の安全運転講習所での訓練プログラムの中で大切にされてきたのは、運転技術だけでなく運転者の『心』の在り方。焦ったり驕ったりする心をコントロールする技術も大切にされてきました。
安全教育の黎明期、どのようにしてそうしたプログラムは作られたのか、そしてそれは現在のHondaの交通安全教育にどのように受け継がれているのか、黎明期に安全教育に携わった方々、そして現在の交通教育センターのインストラクターなどにお話を伺いました。


交通安全教育のはじまりにあった想い

安全運転普及本部に20年以上在籍し、後に安全運転普及本部事務局長を努めた吉村征之

安全運転普及本部に20年以上在籍し、
後に安全運転普及本部事務局長を努めた吉村征之

運転技術だけでなく、感情や心をコントロールする講義も積極的に行われた。

運転技術だけでなく、感情や心をコントロールする
講義も積極的に行われた。

『安らかな家庭生活にかえる』1970年代の安全運転講習所のテキストに記されている言葉だ。一見、安全運転とはまったく関係ないかのように見える言葉に、『安全は人の心から』という思想が現れている。
「安全運転には、乗り物を操る技術だけでなく、自分の感情、心をコントロールする技術が必要です。どれだけ技術を高めても、家族とけんかをしてイライラした状態で運転すれば事故を起こす可能性は高まる。だから家庭を大事にしないといけない。そういうことを安全運転講習所では伝えようとしていました」、1974年から20年以上、安全運転普及本部に在籍し、後に事務局長も努めた吉村征之は話す。
1960年代半ばから始まった白バイ訓練の根底を流れるのは、もともと二輪レースの監督も務めていた初代所長小河原将司の『命を大切にしなくてはならない』という想いだ。それを伝えようとする小河原の講義は、内容も教材もすべて手作りで、伝え方も小河原流と言えるような独特のものだった。
「例えば大きい人をただ押しても動かすことはできないけれど、大きい人に向かって走っていけば動かすことができる。それが運動エネルギーですよね。それを実際に受講者に動いてやってみてもらう。そうすることで頭でも体でも理解させる。論理的なだけでなく、立体的かつ具体的な講義でした。常に『なぜ?』と問い続ける方法論がHondaにはありますが、安全運転講習所の講義もまさにそれでした。『How to』だけを教えるのではなく、『なぜ』そうするのかを自分で考え気づけるような講義になっていました。」

1970年に安全運転普及本部を設立したHondaが翌年の新聞広告を通して世間に表明した信念、それは『機械がどんなに進化しようとも、それを操作する人間が基本である』ということ。白バイ訓練で貫かれていた『安全は人の心から』という考えも根本は同じものだ。
「乗り物をより安全に進化させるだけでなく、安全に楽しく乗る術も提供していかなくてはならない、それが安全運転普及本部の想いです。その為の交通安全教育はある意味、人の心の教育でもある。だから、交通安全教育ほど難しい教育はないと今でも私は思っています」。(吉村)

社内にあった1本のフィルムだけを参考に

初期メンバーの一人の元鈴鹿サーキット交通教育センターインストラクター渡辺潤

初期メンバーの一人の元鈴鹿サーキット
交通教育センターインストラクター渡辺潤

訓練の基本は『走る、曲がる、止まる」から。

訓練の基本は『走る、曲がる、止まる」から。

そもそも白バイ訓練が始まったきっかけは、中部管区の県警から寄せられた「白バイ隊員の殉職事故を減らしたい」という相談だった。高速道路の開通、急激に増える自動車、激変する交通環境に伴い、増える交通事故に対処するため増員された白バイ隊員の殉職事故が相次いでいた。これを聞いた小河原は、白バイ隊員に対する訓練で事故が減らせるのではないかと考えた。それを後押ししたのは、本田宗一郎の「やってやれ」という言葉だった。
「スタートのメンバーは、小河原や私を含めたったの4人でした」。初期からインストラクターとして安全運転講習所での白バイ隊の訓練にあたった渡辺潤は語る。ライディングスキルは持っているものの、教えるということに関してはただの素人。交通安全教育を行う施設や団体は他になく、参考にできる例も文献もない中、唯一の資料がHonda内部で作られた『テック教室』という16mmのフィルムだったという。
「お客様にバイクを売る以上、安全に乗って頂けるようにしなくてはならないという本田宗一郎の考えで作られたフィルム、分かりやすく『走る、曲がる、止まる』の基本を教える内容でした。私たちが交通安全教育を始める以前から、それが必要だという考えが既にHondaにはあったということは驚きでしたね」。(渡辺)

試行錯誤から生まれた数々の訓練

二十歳そこそこでインストラクターになり、教える相手
の方が年上で大変だったという。元鈴鹿サーキット
交通教育センターインストラクター小野 和幸

二十歳そこそこでインストラクターになり、教える相手の方が年上で大変だったという。元鈴鹿サーキット交通教育センターインストラクター小野 和幸

元安全運転普及本部インストラクター星 節雄
安全運転普及本部設立後、全国に展開した
安全運転講習のマニュアル作りなどに尽力した。

元安全運転普及本部インストラクター星 節雄 安全運転普及本部設立後、全国に展開した安全運転講習のマニュアル作りなどに尽力した。

深い砂地に足をとられる訓練生。あらゆる状況を
考慮し、厳しい訓練が続いた。

深い砂地に足をとられる訓練生。あらゆる状況を考慮し、厳しい訓練が続いた。

塩ビ管を並べて作った滑りやすいコースで
バランス力を磨く。

塩ビ管を並べて作った滑りやすいコースでバランス力を磨く。

しかし相手は白バイ隊員、バイクに乗るという点ではプロ中のプロだ。ただ、『走る、曲がる、止まる』を教えるのでは何の足しにもならない。どんな訓練をすれば、より高度な技術を身に付けてもらえるか、さらに考えなくてはならなかった。
訓練は舗装路のコースだけでなく、サーキットや砂地、敷地内のオフロードコースも使用して行われた。訓練の狙いは『限界領域で起きることを安全に体験させること』。例えば、滑りやすい砂地を走ることで、滑ると車両がどういう状態になるのか体験し、どうすれば転倒を回避できるかを身体で覚えさせる。それは、現在のHondaの安全運転普及本部の基本でもある『危険を安全に体験させること』に繋がる。
その他にも、サーキットを利用して高速からの制動訓練や高速スラロームなども行われた。日本最初の高速道路が開通したのが1963年。まだまだ未舗装路も多い当時、そもそもハイスピードで走ったことのある人は圧倒的に少なかった。サーキットを使用しての高速訓練は白バイ隊員にとっても貴重な体験だったに違いない。

訓練を重ね、白バイ隊員の技術が向上してくると、インストラクターたちは、さらに高度な訓練を考えた。一本橋にクランクを設けた屈曲一本橋。塩ビ管をたくさん並べて作った滑りやすいコース。寝かせた電信柱の上を走るコースなど様々なコースが作られていった。
「大変だったのは、私たちインストラクターも当たり前のようにそれを出来ないとならないことです。でないと、訓練生はついてきませんからね。今だから白状するけれど、仕事が終わってから、毎日こっそりと練習しました」と元鈴鹿サーキット交通教育センターインストラクター小野和幸は笑った。
「現在全国の二輪教習で行われる一本橋(細い板の上を低速で走る教習)や急制動など、今は当たり前に行われている実技課題ですが、当時の教習所にはまだなく、安全運転講習所にくる前はHonda系列の教習所の指導員だった私にとっても、鈴鹿にきて初めて見る練習プログラムでした」と語るのは、元安全運転普及本部インストラクターの星節雄。安全運転講習所で行われていた訓練内容が、後に二輪の免許取得制度変更の際、実技教習プログラムを作る上で大いに参考にされたのだという。