MENU

HONDA

検索
マイ・ワンダフル・サーキット 浅間から鈴鹿、そして世界のHondaへ―― リキさんのレーシング日本史

第24回
Hondaが《世界》から還ってきた!


「1961年というのは、Hondaの“国内復帰”の年だった」

「Hondaは、1959年にマン島TTレースに出場して、その延長線上で世界GPレースで闘いつづけた。その結果、国内レースを顧みる余裕がなくなっていた」

2バルブで出力向上に失敗したRC144に換えて、急遽投入されたRC143。写真のマイク・ヘイルウッドを筆頭に、マン島出場3年目にして125ccクラスの1位から5位を独占する。

「でも、場所(サーキット)こそないとはいえ、盛り上がりを見せる国内のレース、ついにHondaもほっとけなくなった」

「この点については、田中健二郎も著書で書いてます」と、リキさん。

その著書とは『走り屋一代』、出版されたのは1969年。リキさんが『サーキット燦々』で、この本の一部を紹介されているので、ここではそこからの引用とさせていただく。 (カッコ内は、引用者の注です)

「Hondaは(国内の)クラブマンレースにまで、経済的・技術的・時間的にも手が回らなく、国内ではヤマハに負けるどころか、スズキ、トーハツにさえ追い越されたような気配となってきた」

「Honda以外の2サイクルはチューンがやりやすい上に、メーカー技術部が本腰を入れていた。Hondaはそこまで手が回らず……(略)」

こうした状況に対応すべく、Hondaは国内レース用のマシンを新たにつくるだけでなく、人材の育成にも乗りだす。これが「健二郎学校」で、それは1962年のクラブマンレースでさっそくその成果をあげることになる。(後述)

さて、Hondaがこうして国内レースへの姿勢を変えようとしていた頃、肝心の国内ロードレースはどんな状況だったか。

……ウワサだけは、1961年の秋頃からあったという。日本にも、国際規模のロード・サーキットができるらしいという風説である。

1962年が明けて、春になると、そのウワサに具体性が加わってきた。そのサーキットができるのは、どうも「鈴鹿」付近らしいというのだ?!

しかしウワサと同時に、もう少し確実なネタも上がってきていた。サーキットはたしかに、この国にできる。その場所は鈴鹿である。しかし、そこでの「クラブマンレース」開催は不可能であるという情報だった。

1961年はジョンソン基地で、そして次の62年はその新設サーキットでレースをする……というクラブマン・ロードレーサーたちの夢は、ここで行き場を失った。

1961年の第4回をもって、クラブマン・ロードレースは、いったん休止になってしまうのか?

ここまで“煮詰まった”とき、九州から声があがった。

「場所については責任を持つ。だから、九州で、全日本クラブマンレースをやってくれないか?」

こう申し出たのは、彼の地で米人から、敬意と親しみを込めて“ポップ”と呼ばれていた吉村秀雄である。

「吉村氏は、米軍基地のそばでバイク屋をやっていた。客はおもに米軍人で、基地内にも出入りして、ドラッグレースのためのチューンもやっていたね」(大久保)

その基地とは、九州・博多の板付基地。関東における横田と同じようなことが、九州でも起こっていたのだ。

こうして九州でクラブマンのロードレースができそうだという話になったのだが、ただ、場所が九州ということで、果たして、ライダーやマシンは集まるのか? 当時のクラブはほとんどが関東と関西に集中しており、九州・博多は決して近くないはずである。

「でもねえ、ちゃんと集まっちゃったんだね、これが!(笑)」(大久保)。

参加者/台数は、主催者の予想を超える172台だった。これは宇都宮とジョンソン基地のレースでのエントリー数に対して、約7割に達する数で、レースができるのならどこへだって行く! こんな当時の熱気を示すエントリー数となった。

1962年の第5回全日本モーターサイクル・クラブマンレースは、7月に、博多湾の先端にある「雁ノ巣」飛行場を舞台にして行なわれることが決まった。

そしてHondaは、この「雁ノ巣」でのレースに、マシンと人の双方で、周到な準備をして臨むことになる。

(第二十四回・了)

(取材・文:家村浩明)



「マイ・ワンダフル・サーキット」TOPページへ 大久保 力 プロフィール 前へ 次へ