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マイ・ワンダフル・サーキット 浅間から鈴鹿、そして世界のHondaへ―― リキさんのレーシング日本史

第21回
流浪するロードレース 1 これは“完全舗装”じゃない!


1960年、浅間ではロードレースが開催できないことを知ったクラブマンたちは、ようやく、宇都宮郊外「清原」でのレース開催にこぎつけた。そしてここには、伝説のライダー、ジェフ・デュークもやってきて、マン島TTレースのウイニング・マシン「ノートン・マンクス」による模範走行も行なった。

では、「ポスト浅間」としての初レースとなった、この清原での「第3回 全日本モーターサイクル・クラブマン・レース」とはどんなものだったのか?

「これが、その清原でのレースを報じた、当時の『モーター・サイクリスト』誌ね」

リキさんが示した雑誌のコピーで、まず目に飛び込んでくるのは、「出場者300名の新記録」という見出しである。

そして、50cc、125cc、200cc、250cc、350cc、次いで500ccと501cc以上、さらにオープンによる「国際レース」。これら各クラスのリザルトとレース経過を綴る記事がつづく。 参加台数もさることながら、1960年という時点で、これだけ細分化した「クラス分け」が行なわれていることにもちょっと驚く。

「この60年のクラブマン・レースについていえば、小排気量のクラスで、台頭するトーハツ、そしてそれを迎撃するホンダという図式になるかな」

50ccでは、そのトーハツ・ランペットが上位を独占して勝利。そして125ccでは、Honda・ベンリイ(ライダー堀越正一)がトーハツ勢を押さえて、1位と4位を獲得。さらに200ccクラスでは、ベンリイCB-92(125cc)をボアアップして150ccとしたマシン、Honda SSが1位から5位までを独占。ここでの勝利ライダーは折懸六三だった。

「ただね、コース状況はひどかった! コースの半分はダートというのか、走るとコンクリートの破片が飛び散るようなサーフェスで……。浅間の火山灰とはもちろん違うんだけど、でも、ホコリがモウモウというなかでレースするということでは、浅間も清原もおんなじようなものだった」(大久保)

『サイクリスト』誌は、このレース特集の記事末尾に、「第3回全日本クラブマンレース 総評」という記事を載せている。そして、その記事の書き出しは、このようなものである。

「コースに対して名案はないか」という見出しのあと、本文は以下のようにはじまる。

「ライダーは殺人的コースを走らされると、身の危険ばかりか、観衆のなかに飛び込む恐れもある。石ころが多いだけでなく、ほこりがものすごく、その上、観衆がぎっしりとつまっている」――。

この文章のすぐ横には写真もあるのだが、これはあたかも濃霧のなかを走っているようなショットで、これでは、走るライダーも前が見えないのでは?……という心配をしたくなるほどだ。

さらに、この「総評」から見出しを拾っていくと、「小さな事故ですんだのは不幸中の幸い」「決勝でのスタート順位の抽選はオカシイ」「ひどかった入り口付近の混雑」「出場選手の技量テストが必要」……といったものが並ぶ。

そして、「明年を期して」と題された終章は、以下のようにはじまる。

「いろいろと苦言を呈してきたが、第3回目の全国大会を開催するためのレース場としては、あの宇都宮では規模が小さすぎて無理であった、ということが結論としていえる」。

走りたい、レースをしたい!

このクラブマンたちとクラブ連盟の熱意と勇気は大いに認めるが、清原の飛行場跡では、その熱さを受けとめるだけの能力もキャパも不足だったということであろう。

そして! 実はこの清原でのレースには、リキさんもエントリーしていた! 125ccクラスの予選出走者のリストには、黒沢元治と並んで「大久保力」の名があるのだ。

リキさんは、自身にとって、この第3回クラブマン・レースがどういうものであったかを、その著書『サーキット燦々』のなかで、以下のように、さりげなく記している。

「残暑厳しいなか、何でこんなに集まってしまったかわからない5万人の観衆と、壊れたコースの埃で、誰もが顔真っ黒の2日間であったが、125ccクラスで、他車に南京豆畑へ跳ね飛ばされ、コンクリート瓦礫に激突し、尾てい骨骨折、伊藤史朗運転のにわか救急車で運ばれた私(著者)にとっては痛〜いレースであった」。

(第二十一回・了)

(取材・文:家村浩明)



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