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マイ・ワンダフル・サーキット 浅間から鈴鹿、そして世界のHondaへ―― リキさんのレーシング日本史

第19回
清原飛行場 〜 幻の舗装路レース


1959年8月、浅間高原で開催されたレースは空前の盛り上がりを見せたが、しかし、9万とも11万ともいわれる観衆を集めた浅間でのレースは、この「1959年」のビッグイベントをもって終焉を迎えることなってしまう。

クラブ連盟は、1960年も浅間でのレース開催に向けて動いたが、本来のテストコースとして活かすことを決めていた「浅間高原自動車テスト協会」から、「レースのためにはコースは貸せない」と通達されて開催を断念した。

かくて1959年夏以降、浅間でレースが行なわれることはなかった。しかし、この59年の時点で、それを知る人はいない。参加者全員が、「来年、またアサマで会おう!」という思いを抱いて、59年・夏の浅間をあとにしたのである。

「アサマ」というすばらしい体験を経て以後、バイクによるレース、あるいはバイクによるコンペティションへの情熱は、全国規模で高まるばかりだった。

そこから、ロードレースはあまりにもおカネがかかるとして、より取っつきやすいジャンルとしての「モトクロス」が注目されはじめる。さらには、「これはアメリカ人の発想だね」(大久保)という「ドラッグ・レース」も、合わせて行なわれた。

当時、各地の米軍基地には、駐屯する米人によるモーターサイクル・クラブができており、彼らもまた、“レースする機会”を積極的に探していたが、その欲求に応えたのがドラッグレースであった。ストレートでゼロ→400mの加速を競うというこのドラッグ・レースは、やがては全日本規模にまで発展する。

その会場となったのは、たとえば、Honda・荒川のテストコース。これはエントラント側がメーカーのHondaに、レースをやるから、あなたのところのテストコースを貸してくれ!と頼んだものだった。あるいは、自衛隊・浜松基地内の飛行場も、レースのためのコースの貸し出しに応じた。

こうして1959年・夏以降、さまざまなフェイズで「バイクによるスポーツ」は盛り上がっていたのだが、1960年の春、ひとつのニュースが全国を駆ける。それは、これから先「アサマ」では一切レースはできないという悲しい報せであった。

浅間終焉の後を受け、ロードレース渇望の発露となった宇都宮郊外の清原飛行場跡地。1周2.75kmの旧陸軍少年飛行学校滑走路(現在は工業団地)のコースは、砂塵の上がる走路も含まれ、視界を失ってコースアウトするライダーもいた。

とりあえずクラブ連盟=MCFAJは、この動きに対応して、モトクロスをもっとやろう!という姿勢を示す。モトクロスなら、レースと違って場所を選ばない。いってみれば、「持ち主がOKなら近所の野山でもできる」(大久保)からである。

また、市販型スポーツ・モデルが各社から登場し、それをベースに、モトクロス・マシンに改造するアマチュアは全国規模で存在していた。

この頃、日曜日になると、46都道府県(当時は沖縄が入っていなかった)で必ず、それも1ヵ所以上で、モトクロスが行なわれるようになっていったと、リキさんはいう。

クラス分けは、50/125/250/251cc以上というもので、この251以上というカテゴリーでは、外国製のBSA、トライアンフといった英車、またハーレーのスポーツスターといったバイクが走っていた。50〜125では、Honda、ヤマハに加えて、トーハツ、スズキ、山口オートペット、タス、といったマシンが有力エントラント。250では、新明和工業のポインターも強かった。

「ただねえ、《ロードレース》をできないかという流れというか願いは、やっぱり止められなかったね!」(大久保)。

たとえ、路面がダートというより火山灰であっても、《アサマ》という高速コースでのレースの衝撃は、それだけ大きかったのだ。

そしてもちろん、コンペティションの場として整地/不整地のどっちを好むかという選択も、この頃から生まれてくることになる。

ロードレースをやりたいとして、各クラブの有志が「場」を探しはじめた。しかし、なかなか見つからない。

ようやく浮上したのは、宇都宮にある旧・陸軍の飛行場跡だった。宇都宮のあるクラブマンから、「宇都宮・郊外、清原の飛行場跡が使えるかもしれない」という連絡を連盟にしてきたのだ。これは1960年・春のことだった。

ここでは、戦後に満州から引き揚げて来た、かつての「満州開拓団」が畑を作って開墾していた。そして栃木のクラブが、その開拓団と交渉、「清原」のコースを借り受けることに成功するのである。

「ただ、ここは路面はボコボコでね。……いや、完全舗装路というハナシだったの。もともと、飛行場の跡だしね。でも、少しはキレイにしようとして掃除したら、コンクリートもいっしょに剥がれてきちゃって(笑)」

結局、補修工事もできず、コース(2.76km」の半分は、走るとセメントが粉になって舞い散るような“セミ・ダート”状態のままで、60年5月のコース開きを迎えることになってしまう。

しかし、半分であっても舗装路でレースをしたということが、これ以後、本格ロードレースへの渇望(「ちゃんとしたところでレースをしたい!」)をいっそう高めることになっていく。

(第十九回・了)

(取材・文:家村浩明)



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