マイ・ワンダフル・サーキット 浅間から鈴鹿、そして世界のHondaへ―― リキさんのレーシング日本史

第18回
アサマのレースは、日本のバイクを変えた!


《アサマ》がその後の日本に与えた影響について、リキさんはつづけた。

「《アサマ》はレース関連だけでなく、それ以後の日本のバイクの状況をはっきりと変えた。この点も、押さえておきたい」

何といっても、その第一は、アサマによって“日本のバイク”が変わったことである。

「まず、アサマ以後、バイク・ユーザーの志向が変化して、そしてそれに対応してモデル(市販車)も変わった。ひと言でいえば、実用車の時代が終わり、バイクははっきりスポーティなものでないと売れなくなった」(大久保)

1950年代末になって、それまでのカーゴを運ぶという能力だけでなく、「スポーツ性」こそがバイクの商品性となっていく。そして、この傾向を加速した要素が、バイク以外にもあったという。

「それは、オート三輪の普及ね。要するに荷物を運ぶのは、もう二輪ではなく三輪で……という時代になっていた。マツダ、ダイハツ、くろがね……。こうしたメーカーが競って、三輪車をつくりはじめたのね」

そして、アサマが変えたことの二番目は、モデルの《傾向》が変わったことだという。50年代まで、日本車の“規範”は英国車であったのだが、それがドイツ車になっていったというのだ。そして、その傾向を力強く引っ張った二つのメーカーは、「これは、ヤマハとHondaのせいね!(笑)」(大久保)

この「イギリス型かドイツ型か?」ということとも関連するのだが、リキさんは、以下のような当時の論争を語ってくれた。

「この頃の二輪専門誌での、けっこう真剣な論議があってね。それは、左側通行の日本で、バイクのシフトは、左右どちらにあるべきか?!ということ――」

写真上:1959年《アサマ》の舞台となった1周約9kmの浅間高原自動車テストコース。メーカーが共同出資で当時としては巨費の2000万円を投じて浅間牧場内に建設された。
写真下:浅間最後の年(1959年)に市販された市販CR71スーパースポーツ仕様車。

え?! バイクのシフト、つまりギヤチェンジは「左」に決まってませんか? いやいや、それはあくまでもドイツ流なのよ……と、リキさん。そう、当時、英国車は右チェンジであり、そして、ドイツ車が左チェンジだったのだ。

イギリス車の場合、右足でキックして始動し、右足でシフトする。一方、ドイツ車では、左足でキックして、左足でシフトする。いったい、どっちがいいのか? 

「これはジャーナリズム上では大論争になりました。ただし、メーカーは一切関知しなかったけどね(笑)」(大久保)

もちろん、日本の交通システムは、当時もいまも、クルマは左側通行である。その左側通行で、果たして、どっちが合理的なのか?

「左側通行の場合、バイクは普通は道の左端に停めてますね? そして、バイクにまたがるときは左側から乗る。その流れで、右足でキックして始動する。そして、そのままシフトする。これが英国車、つまり左側通行の国のバイクのコンセプト」

……なるほど、だから、日本における合理性は、むしろ「右チェンジ/左ブレーキ」なのか?

「でも、60年代になって、人気の主流はドイツ風にというか、Hondaやヤマハに人気が集まって、そのまま、左チェンジが普通になっていく」(大久保)

そういえば、カワサキの「W1」は1970年代まで右チェンジだったような記憶が……?

「そう、英車をフォローしていたメグロは、ずっと右チェンジのままだった。そして、カワサキとなって継承されても、しばらくそのままだったね」

そして、リキさんは付け加えた。

「59年のアサマから5〜6年経つと、だんだんと外国車が不人気になっていった。日本車がよくなったしね。そして日本では、左側通行なのに左チェンジということで、今日に至っているわけ」

さらに、《アサマ》以後顕著になったこととして、50ccクラスの充実があるという。

「三つ目は、日本車の50ccモデルの発展ね。それまでの、自転車にエンジンを後付けするという時代が終わり、各社が本格的な50cc車をつくりはじめた」

「ちゃんとしたオリジナルのフレームに、50ccのエンジンを載せる。その代表は、もちろんHondaのスーパーカブ」

Hondaの埼玉製作所(当時)で、スーパーカブの一号機が誕生したのは1958年。これがあまりにもヒットしたので、Hondaは新たに鈴鹿工場が必要になったのだが、「この50cc人気も、やっぱりアサマと関係がある」と、リキさん。

では、1959年、ラスト・アサマのクラブマンレース、50ccクラスのエントリーを見てみよう。20台に及ぶエントリーのうち、Honda・スーパーカブと山口オートペットの2モデルが対決モードで二分しており、そしてそれに西独NSUが2台が絡む。

レースの結果は、1位から4位までをスーパーカブが独占。このレースで2位に入ったのが16歳の生沢徹選手だった。

そして、60年代に入ると、各社から本格的な「原付一種」バイクが続々と登場する。 ちなみに、『日本モーターサイクル史』(八重洲出版)から、「1960年」のモデルとそのラインナップを見てみよう。

そこに並ぶ車種は、Hondaのスーパーカブ&スポーツカブ、スズキのセルペット、ヤマハのモペッド、ブリヂストン・サイクルのBSチャンピオン、山口自転車のオートペット、宮田工業のミヤペット、田中工業のタス・ダイナペット、東京発動機のトーハツ・ランペット、新明和興業のポインター・ラッシー……などなど。

これらのすべてのモデルは、本格的に開発された50cc車で、「自転車+エンジン」という時代は彼方に去っていた。また、明らかにスーパーカブの影響と思われるが、これらのほとんどのモデルは、カブと同様に、プレス・フレームを採用。例外(パイプフレーム)はトーハツ・ランペットくらいである。

「ヨーロッパでは、50ccのロードレースはすでに存在していた。イタリアにいいマシンがいっぱいあったね。そして、ヨーロッパ選手権も行なわれていて、その人気がのちにマン島でのTTレースに、50ccクラスを加えさせることになる」(大久保)

そしてもうひとつ、アサマ以後、つまり60年代に起こったこととして、カテゴライズの問題があると、リキさんは語った。

「こうして50ccの原付一種が充実するとともに、125ccという原付二種のカテゴリーも固められていくね。だから、60年代になると、ハンパな排気量のモデルがなくなっていった。それまでは、145ccとか、いろいろあったんだけど」(大久保)

クラス分けは、50、125、250、350……となった。日本の場合、後年、400ccで中型と大型を区別することが始まり、免許制度も異なるため、350ccクラスはいまでは400ccになっているが、そのほかのクラス分けは、今日にまで連綿とつづいていくことになる。

(第十八回・了)

(取材・文:家村浩明)



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