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マイ・ワンダフル・サーキット 浅間から鈴鹿、そして世界のHondaへ―― リキさんのレーシング日本史

第14回
激動の1958〜1959年


1958年には、「ワークス対抗」のレースがなかったため、その代わりというかたちで、夏の浅間で、クラブマン・レースが行なわれ成功を収めた。そして、こんな国内の動きと時を同じくして、日本のバイク・メーカーの海外での動きも始まっていた。

――前々回(第12回)の中に、米国人ライダーとHondaの連携からマン島につながっていく、という話がでましたが?

「ああ、ビル・ハントですね。彼は58年浅間の『国際クラブマンレース』で優勝して、その後、Hondaのアドバイザーのような立場になりました。そして、マン島でもライダーとして……」。

――いや、というように国内と海外がいっしょになってくると、ちょっと混乱するような気がします。なので、国内でのバトル篇と海外への雄飛篇、できれば分けたいと思うんですが?

「うーん、そうもいかないんだよ。たとえばいまは、日本国内の1958〜59年頃の話をしていると思うけど、でも時間軸でいうと、59年にHondaはもう「マン島」にでちゃうからね!」。

――あ、そうですね……。

「それとこの種のことなら、1958年の5月だから、浅間のクラブマンレース(8月)より数ヵ月前ね。この時期に、すでに日本のメーカーは海外レースに参戦していた。それがアメリカでのカタリナGPで、メーカーはヤマハ」。

そして、浅間のクラブマン・レースで「市販車じゃない!」。としてモメたクルマも、Hondaがマン島TTレースに参戦するための開発と研究を行なっていて、その過程のなかで生まれたマシンだった。

「また、《人》ということでいっても、国内と海外とか、いまのHondaだったら、そんな風に担当を分けて参戦体制を組めるかもしれないけど、当時は、そんな分離はできなかったよね。レースということなら、国内も海外もどっちも(監督は)河島さんだし、ライダーも同じだし」。(大久保)

――そういえば、いまリキさんは「マン島TTレース」関連の本を準備してらっしゃるとか?

「そう、(海外のことは)そこに全部書いちゃった!」。

――じゃ、マン島でのHondaとかその海外雄飛編は、いずれゆっくりうかがうとして、ここでは一応、国内のことをメインに……。

「ところが、その国内で走るマシンが『マン島がえり』だったりするのよ!(笑)」。

なるほど、国内外というよりも、河島喜好監督をはじめとするHondaチームがどんな活動をしていたか。この点で追っていかないと、逆に動きが見えにくくなるのか?

では、真夏の浅間がクラブマン・レースで盛り上がっていたとき、つまり「1958年」に、日本のメーカーではどんなことが起こっていたか?

まず、この年の5月に、ヤマハが海外レースに参戦した。ターゲットとしたのは、アメリカ西海岸ロサンゼルス。カタリナで行なわれていた「GPレース」に5台のマシンを送り込んだ。

「これは、Hondaがマン島挑戦ならウチはアメリカとか、そんなセコイ理由ではなかったと思うね。

当時、いずれは外国でまた世界で、自社のオートバイを売ろうと思っていたなら、その地域で行なわれているレースへの参加は、ほとんど必要条件だったと思う。

だって、東洋の、まったく未知のメーカーがつくったものでしょ。その性能を示すには、実績がなければダメ。……で、ヤマハは販売面での北米進出という意図も含んで、カタリナを選択したはず」。(大久保)

そして、この年のカタリナGPは、アメリカでの普段の舗装路レースとは異なって、高低差があり、未舗装路も含む山中の悪路を走行するコースが設定されていた。

ヤマハは、その250ccクラスに、前年(1957年)の浅間で優勝した「YDA/YDB」の発展型でエントリーした。4台のマシンにはアメリカ人のライダーが乗ったが、もう1台には日本人ライダーを乗せた。そのライダーが伊藤史朗、そして彼はこのレースで6位に入賞するのだ(出走32台で、完走は11台だった)。

研究開発用に購入した1957年型モンディアル・ワークス・マシン。Hondaはこのマシンの高性能を認めながら、一切模倣することをしなかった。

一方Hondaでも、この「1958年」にはちょとした事件があった。イタリアから、本場ものの「ロードレーサー」が、社内にやってきたのである。

その名は「モンディアル」このメイクスは1954年頃からGPレースに参戦しはじめ、瞬く間にトップ・コンテンダーにのし上がった。そして、57年のマン島TTレースでは、125ccと250ccの両クラスで勝利していた。

つまり、世界GP戦線における直近のウイニング・メーカーによるマシン。それが手に入ったのだ。

エンジンは125cc、4ストローク単気筒。はじめて間近で目にした、本物のレーサー。 Honda関係者の第一声は、「こんなに華奢なのか!」であったという。

「それまでのHondaのマシンは、というかHondaだけではないんだけど、『浅間でレースする』ということが、そのコンセプトになっていた。粗い路面に耐えるため、何より剛性が第一。

そういう“タフな”マシンばかりつくってきたから、純ロード・レーサーが、見た目に、いかにも華奢に見えたんでしょうね。もちろん、実際にも軽かったし。こんなに軽いのか! こんなにパワーあるのか! このことにまず驚き、そしてもうひとつ衝撃があった」。(大久保)

(第十四回・了)

(取材・文:家村浩明)



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