マイ・ワンダフル・サーキット 浅間から鈴鹿、そして世界のHondaへ―― リキさんのレーシング日本史

第2回
リキ少年、脱・自転車を果たす!


これはすごい!と、二輪車のうえで風を切るよろこびを知ったリキ少年。
ただし、1950年代前半、14歳の少年がバイクに乗れたのは、親の仕事を手伝うという社会的な要請と大義名分があったから。
大久保家の家業は造園業で、リキ少年は何よりまず、家業を手伝うためにバイクに乗ったのである。

この頃、何でもありの超オカネモチのケースは例外として、いったいどんな場にバイクや自動車が「あった」のかというと、商業や工業(工場)を営む人々のところだった。時代とともに生まれた「エンジン付きの乗り物」は、何かの商売や家業を助けてくれる強力なヘルパーだった。

ちなみに、ごく普通の勤め人の家庭だったわが家(1947年生まれの筆者宅)には、50年代、なにがしかのエンジン付きビークルがやってくるような気配は皆無であった。自動車やバイクのマニアではない、並みのサラリーマンが自動車を買える――あるいはインフラも含んで、こういう状況と価格なら自動車を買ってもいいかなと思いはじめるのは、1966年の「サニー/カローラ」登場以後ではなかったか?

さて、大久保家のバイクは、自転車+エンジンという過渡期状態を脱して、すぐに本格化した。リキさんは語る。

「ブリヂストンのあとに買ったのは、トーハツの80ccでした。自動遠心クラッチのついたもので、そしてその後、トーハツの200ccも買っていますね。何でトーハツ? それはトーハツの販売店が小金井にあったから」

このトーハツというのはブランド名で、メーカーは東京発動機。この「……発動機」というのはエンジンを意味し、当時は原動機と並んで、ごく普通の表現だった。ついでにいうと、大阪発動機から、今日に至るダイハツという名が生まれてもいる。

また、ある記録では、「1951年に、前年まで8社であったモーターサイクル・メーカーが一挙に30社になった」という。

1977年に発行されたモーターサイクリスト誌の臨時増刊「国産モーターサイクルの歩み」における「国産モーターサイクル・アルバム」というグラビア企画で、「1953年」のページに収録されているおもなブランド/メーカーは、以下のようなものである。

ライラック=丸正自動車製造、タイヨー=大洋モータース、ヤマト=ヤマト商会、トーハツ=東京発動機、ポインター=新明和興業、IMC=伊藤機関工業、ホンダドリーム=本田技研工業、富士=日米富士自転車、昌和=昌和製作所、シルバーピジョン=新三菱重工業、クインロケット=ロケット商会、アサヒ=宮田製作所、メグロ=目黒製作所、陸王=陸王モーターサイクル、ハリケーン=富士工業、etc

……そう、この時点では、その後のHondaのライバルとなるスズキ、ヤマハは、まだ出現していないのであった!

荷台
50年代前半の日本を駆けた“働くバイク”のワンカット。
こうした原付自転車だけでなく、本格バイクにおいても、この頃、荷台は欠かせない装備だった。

そして、以上のバイクは例外なく、そもそも家業を助けるためのバイクだから、物を運ぶための大きな荷台がついていた。リキさんをはじめとする当時のバイク少年たちは、平日の昼間はバイクを使って仕事に精をだし、そしてジョブが終わると、そうした実用車を変身させて乗り回した。リキさんのトーハツも、

「まず、荷台を取ったね!(笑)そして、ハンドルを換えた。そうするとブレーキのワイヤーなんかも換えなきゃならないので、うちにはいろんなタイプのワイヤーが山のようにあった(笑)」

「ハンドルで一番好きなのは、やっぱり一文字だった。でも、ほんとは運転しにくかったんだ(笑)。浅間(レース)なんかを走ってみると、一文字は間違いだってことがよくわかるよね」

このトーハツ200ccの価格は、15〜16万円であったという。そしてこれは、一般の年収の約2倍に相当する額でもあった。大学卒の初任給が1万円に届くのは、1959年まで待たなくてはならない。日本の50年代前半、バイクというのは、社会にとっても、また個人にとっても、そんな特別な存在だった。

(第二回・了)

(取材・文:家村浩明)



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