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メディアで紹介された汎用製品
日本の農業を変えるのが夢
ほんとうの時代


ほんとうの時代
2005年5月号
取材・文●編集部 
写真●高橋章夫
ほんとうの時代
人生の円熟期を迎える世代に対し、ゆとりと充実の生き方を提案し、働き盛りの世代の生き方と健康を考え、夢と励ましを送る実年ライフ情報誌。
●月刊誌 18日発行
●定価520円
●(株)PHP研究所
 〒601-8411
 京都市南区西九条
 北ノ内町11番地
 http://www.php.co.jp/

ミニ耕うん機「サ・ラ・ダ」
●商品情報 ●スペシャルページ
高知県の山間の町で、有機農法に取り組む山下一穂さん。
バンドマンから塾教師を経た後、 就農して7年目だが、独自の農法を開発し、日々の農作業を楽しんでいる。


高知県本山町/有機栽培山下農園  山下一穂・みどりさん
大根畑に立つ山下さん夫妻と唯一の従業員・川谷青年。
大根畑に立つ山下さん夫妻と唯一の従業員・川谷青年。
「大根の間引きは台風がしてくれた。これも省力化のひとつ」と一穂さんは笑う

家庭菜園から始まった無農薬有機農業

世界の飢餓を救うのが目標と語る一穂さん
世界の飢餓を救うのが目標と語る一穂さん
山下一穂(かずほ)さんは昭和二十五年、高知市に生まれた。幼いころより野山で遊ぶのが好きで、夏休みには豊かな自然に囲まれた高知県本山町の父の実家で遊んで過ごしたという。実家に独り住んでいた祖母はそんな孫を殊のほか愛し、この家と先祖の墓を一穂さんが継ぐようにとの遺言を残して、九十二歳で逝った。山下さん、四十歳のときであった。
「法定相続人はいたのですが、僕なら先祖の土地を守ってくれると思ったんでしょうね。家を継いでから、週に一度くらいは市内から風を通しに通っていたのですが、掃除して帰るだけではつまらないので、家の前の九十坪ほどの畑で家庭菜園を始めたんです」
野菜づくりに手を染めたいきさつを山下さんはこう話す。そのころ体調を崩すことが多く、身体が自ずと無農薬野菜を求めたので、自分で無農薬野菜を作ろうと思ったという。しかし、試しに白菜の種を播くとすぐに虫に食べられた。農家の友人に聞いて一度だけ農薬を撒いてみたが、農薬を使ったことが心に重くのしかかり、自責と後悔の念に苛まれたという。
「そのときです、農薬を使わずに野菜を作ってみせると決心したのは。周りからは無農薬なんて絶対無理といわれましたが、反対されるとやりたくなるのが僕の性分でしてね」
こうして取り組んだ無農薬有機農業は一年目、二年目は経営的には赤字できびしかった。しかし、三年目には黒字が少し出て、自分の思うような作物が育てられるようになったという。当時を思い出して山下さんはこう語る。
「すでに家庭菜園の段階から、作るならいいものを作りたいという思いがあっていろいろ工夫しました。そこで野菜作りの技術を覚えていったと思いますよ。農業をするために技術を学ぼうというのとは逆の攻め方ですよね。思い通りの野菜を作ることに夢中になっているうちに、技術が育ってきたような気がしますね」

”暴力教師”に疲れて夢見た田舎暮らし

一穂さんの指導を受けながら新しく入った耕耘機を操作するみどりさん。「いままで機械は主人任せだったけれど、これは簡単」とみどりさん
一穂さんの指導を受けながら新しく入った耕耘機を操作するみどりさん。「いままで機械は主人任せだったけれど、これは簡単」とみどりさん
理科と算数と偉人伝が好きだったという山下さんの小学生時代は、泥んこになって遊ぶのが日課だった。中学校は私立の進学校に進んだが、学力偏重社会に違和感を覚えたという。その反動で高校ではかなり突っ張り、”不良”と呼ばれた。学校ではバンド活動にのめりこみ、地元放送局主催のイベントにも出演。しかし、バンド活動禁止の校則ができて、それを破った山下さんは退学の憂き目にあうが復学してどうにか卒業。大学に進んだが応援団の強引な勧誘に嫌気がさして授業に出ず、新宿で遊んでばかりいたという。そのうち新宿のスナックでアルバイトをしながらドラムを練習し、一年後にはキャバレーでドラマーとして仕事をするようになった。しかし、半年後、不摂生な生活が続いたためか結核に罹り、故郷・高知に戻って入院、療養に専念する。
退院後、高知のキャバレーで一年間バンドマンの生活を送り、再度上京。ソウルバンドに参加したり、六本木、銀座、新宿などのナイトクラブやディスコに出演する日々が続いた。時には地方へも出かけたり、掛け持ち出演をしたりとハードな仕事をこなしていた。しかし、二十八歳になったころ、肉体的な苦痛とともに業界のしがらみに耐えがたくなり、この世界では生きていけないことに気がついたという。そのころから子ども時代をゆったりと自由に過ごした田舎の生活を夢見るようになり、帰郷を決意した。
当時、山下さんの母親は、中学校教師を退職して学習塾を開いていた。生徒数百人ほどの塾は、経営は順調であったが、世の中は「荒れる中学生」に手を焼いていた時代で、母親の塾も例外ではなかった。そこで、山下さんの母は”元不良”の山下さんを塾の教師に据え、生徒の統率を任せることにした。山下さん、三十一歳だった。母の期待どおり暴力教師℃R下さんは生徒を上手に導いただけでなく、生徒からは頼れる先生と慕われ、生徒の親にも感謝されるようになったという。
塾の仕事を続けながら、山下さんは授業のない昼間は、趣味の釣りや狩猟に明け暮れたが、なにか物足りなさを感じる毎日だった。そして三十代半ばころから次第に恐い教師を演じることに疲れを覚え、体調を崩す日も多くなった。そうした体調の不調から、玄米や雑穀、無農薬野菜などの食べ物を重視するとともに、四十歳の折に出会った気功をマスターすることで、それまでの精神的な力みが消えて、身体は急速に健康を取り戻していったという。そんなとき祖母から田舎の家を継いだのである。

有機農業が美しい地球を取り戻す

ハウス内で管理機を使っての畝立て作業。軽快なエンジン音が通り過ぎた後には美しい畝ができている
ハウス内で管理機を使っての畝立て作業。軽快なエンジン音が通り過ぎた後には美しい畝ができている
農業を始めると言い出した山下さんを妻のみどりさんはどのように見ていたのだろう。
「まさか本気で就農するとは思っていませんでしたね。せいぜい趣味の範囲で、私もそれにつきあえばいいだろうと思っていました。私自身には農業への興味などなかったですから。でも、主人がやると決めたからには私も決心しましたし、面倒な役場での手続きにもすべて関わり協力しました。とはいえ、私もおいしいものは大好きですし、それが自分で作れるならやってもいいなと思ったのが本音かな。実際、有機無農薬でできた野菜はおいしい。おいしいと人にもお裾分けしたくなる。それでおいしいといわれると、商売になるのじゃないかという実感も生まれました」
こう語るみどりさんのいうとおり、無農薬でも高品質の作物が作れる自信が得られた平成十年の夏、山下さんは自ら流通の道をつけるため、野菜を軽トラックに積んで高知市内での行商を始めた。消費者の信頼を得た農園の作物を、みどりさん自身が宅配する家庭は現在、170を超え、県外にも100件以上発送をするほか、店舗にも置いて、顧客に喜ばれているという。
山下さんは日本の農業をすべて有機農業に変えたいという。
「有機農業は消費者の健康に寄与します。食べるほど健康になるし、なによりおいしい。それに環境浄化機能もあるのです。まず土壌や大気、水資源などを汚染しませんし、有機農業は土中の微生物の働きが作物を育てる農業ですので、有用な微生物が汚染を分解・浄化していくのです。土壌の浄化は河川や海にも及び、安全な漁業資源にも結びつきます。日本の農業が有機農業に変われば、農地そのものが地球環境の浄化源になるんですよ」
無農薬有機栽培の野菜は一般には虫食いだらけと思われがちだが、実際には高品質で市場価値が高い作物である。しかし、その農業を推し進めるには模範となるマニュアルがなく、家庭菜園のレベルで留まっている現状が、全国の農家への普及を妨げている。山下さんは汎用性の高い農業技術を確立して、誰でも高品質で収穫量の見込める作物栽培ができるようにすることで、日本の農業が変わると考えている。
「最終的にはその技術力でもって、世界の飢餓・貧困を救うのが僕の目標です。そうした改革のうねりを作り上げて、自分に課せられた役割を早く終え、再び家内とふたりだけの農作業に戻って楽しい毎日を送ることが今の願いですね。壮大な夢の実現には一定の役割は果たさねばなりませんから、あと十年くらいは走り続けるつもりです」
 農業の未来をこう語る山下さんは、従来の”常識”にとらわれない創意・工夫を生みだし、高齢化した農家でも有機農業を可能にする技術を編み出しつつある。

農業は究極のアウトドアライフ

段々畑を望む山の白菜畑
段々畑を望む山の白菜畑
まず、山下さんは土作りを大切にする。土ができていれば作物は勝手に育ってくれるので、山下さんは土壌を活性化するために微生物資材である生ゴミ堆肥を使っている。志を同じくする地元スーパーの生ゴミリサイクル運動を支援し、町営事業化も促進して障害者施設で作るようになった堆肥を購入・利用している。畑の周りの草を抜いてしまわないのも畑の環境整備方法の特徴だ。余分な草は一般には害虫を呼ぶと考えられるが、益虫もたくさん集まるのでバランスがとれ、作物の実害は許容範囲に収まるから、農薬を撒く必要はないと山下さんはいう。
また、省力化も誰もが容易に有機農法に参入できる重要な要素であるという。施肥は生ゴミ堆肥や、樹木を微生物で肥料化したバーク堆肥を、苗のころにタイミングよく振り撒くだけ。そして、いま推し進めようとしているのは、畝間で堆肥を作って、同時進行で畝の上では作物を育てるという方法。これだと小さな管理機があれば年配者や女性でも、できた堆肥を畝上にかきあげれば施肥は簡単に完了する。さらに雑草も抜かずに耕耘機で土に鋤き込んだり、究極は一度耕耘機で耕しただけで、そのまま何度も作物を作るなど、”教科書”には決して載っていない方法で立派に野菜ができるのだ。
「農業経営にあたって手間はコストですから、誰もが扱えるうえに、省力化を常に念頭においた技術を開発しています。そして僕の目標実現のために、その技術情報はすべて公開し、メールマガジンでも意見を聞いています。それは農業者だけでなく消費者の賛同を呼び、商品の直送希望者が増えたり、無償で農作業に参加してくださる援農隊≠ワでできたりと、うれしい反響が広がっています」
 日本の農業の未来を憂えつつ、なにより子どもたちに安全で美味しい食べ物といい環境を提供したいという山下さんの願いは、行政をも動かし、共感した県知事は予算を組んで有機のがっこう「土佐の自然塾」≠平成十八年に開校する。山下さんも今年は、学校設立のための技術指導者として県職員に自らの農業技術を伝授。開校後は塾長に就任するという。具体的な募集要項はまだ検討中だが、農業で生活していこうとする若い人、定年退職後、田舎暮らしをしながら自分の食べる分は作りたいという人、さらに第二の人生に農業を選択する人など、さまざまなニーズに応えられるカリキュラムを考えたいという。
とりあえず農業が楽しい。創意工夫ができるし、消費者の健康に寄与できる。加えて消費者との交流も楽しいし、無農薬だから作物や職業にも誇りが持てると、山下さんはいつも前向き姿勢である。
「こんなに楽しい農業だから、畑にいること自体が快感です。少年時代の野山での遊びをおとなになってからは釣りや猟という擬似的な楽しみで紛らわしていましたが、農業はそういった遊びが全部仕事に含まれていると感じますよ。農業は僕にとって究極のアウトドアライフなんです」
一穂さんとみどりさんの人柄に魅かれて、友人・知人はもとより、見学者や農業指導を仰ぐ人、行政関係者などで山下農園はいつも賑わっている。祖母が播いた一穂さんという一粒の種が大きな芽を出し、豊かに実ろうとしている。

縁先の日だまりで小休止
縁先の日だまりで小休止。
夫婦の話題は今日収穫した大根のでき具合

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