アイデア対決・全国高等専門学校ロボットコンテスト支援

Honda Viewpoint

都城高専OB 松ノ下 佑樹が語る
	「私とロボコン」
	Profile
1999年 宮崎県 都城工業高等専門学校建築学科に入学。
在学中の5年間はひたすらロボットづくりに没頭。
2006年 本田技研工業株式会社に入社。
熊本製作所、埼玉製作所狭山工場勤務を経て、
現在は本社総務部に所属。

笑いあり、涙あり。心揺さぶる特別な場所、それがロボコン。笑いあり、涙あり。心揺さぶる特別な場所、それがロボコン。

後輩たちの勇姿に、よみがえる“現役時代”。

卒業以来、国技館での観戦は2回目、11年ぶりでした。会場の緊張感や高専生たちの熱気を肌で感じることができて、自分も昔に戻ったような気持ちになりました。特に、母校でもある都城高専が1回戦の第1試合というものすごい緊張感の中、鮮やかな逆転勝利を決めた瞬間が一番感動しました。「あの状況、あの雰囲気で良くやった!」と褒めてあげたいです!!

勝敗だけではない、ロボコンの見どころ。

地区大会を勝ち進んできただけあって、どのチームもさすがですね。アイデア、技術、完成度、どれをとっても非常にハイレベルなマシンばかりでした。特に印象に残っているのは北九州高専の「Wanna Be」と一関高専の「百式砲」。技術面も当然ながら、それ以上にぐっとくるものがありました。
まずは北九州高専。鉄壁とも思えるディフェンスを持ちながらも、それをもろともせず高弾道で正確に輪を放ってくる香川高専(高松キャンパス)の「Beehive」と対戦、惜しくも敗れてしまいました。技術の高さもさることながら、対戦後のインタビューが素晴らしかった。悔いなく戦えたことへの喜びとともに、対戦相手への敬意も素直に口にする姿は、本田宗一郎の「技術者である前に人間であれ」という言葉をまさに体言していましたね。とても感動しました。

そして同じく2回戦で敗れた一関高専。シードだったので実質初戦ではあるものの、落ち着いて得点を決め試合をリードしていました。しかし対する都立高専(荒川キャンパス)の「荒鯊」も健闘、同点に追いつかれてしまいます。両者なかなか「もう一回」の投てきを決めることができず、ついにタイムアップ。ルールなので仕方ないですが、勝敗の行方は審査員判定になりました。結果は判定負け。両者スピード勝負型のマシンで、審査員も苦渋の判定だったとは思いますが、あと1分、せめて30秒でもいいから延長戦をさせてあげたかった! 惜しくも敗れはしましたが、この悔しさはきっと将来の大きな糧になるはず。そう声をかけたくなりました。

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すべての経験が、今の自分に繋がっている。すべての経験が、今の自分に繋がっている。

「マシンが動かない?!」非情な結果も、ひとつの経験。

ロボコンにはトラブルやハプニングがつきものです。櫻田さん(「櫻田千尋が語る『私とロボコン』」公開中)のエピソードにあった「直前まで動いていたのに、本番でピクリともしない!」は、私が都城高専1年生の時、当時4年生だった櫻田さんと一緒につくったマシンのことです(笑)。ホントに直前までは順調だったのに・・・。試合終了後、モーターへ電源を供給するコネクタをちょっと触ったら、なんと動き出しました。原因は、単なる接触不良。あれは本当に悲しかったです。
競技中はロボットに触れてはいけないというルールが変更され、リトライ制度ができたのは、その翌々年からでした。ただし当初は1回限り、スタート直後1分以内ならやり直し可能という条件だったと思います。
実は5年生の最後の大会でも、スタート直後の衝撃で一部の機能が接触不良を起こしたことがありました。1年生の時にはできなかったリトライルールでなんとか動くようになったものの、対戦相手も調子が悪く、同じようにリトライ。そうこうしているうちに、両者得点を決められないままタイムアップ。結局、判定負けとなりました。
長い時間かけてつくりあげたマシンが動きもせずに終わってしまうのは、本当に悲しいです。しかしそれも、いま振り返れば貴重な体験だったのかもしれませんね。

ロボット好きの情熱は、いつの時代も同じ。

世の中の技術の進歩に伴って、高専生たちの技術や使う部品も進歩しているな、と感じます。私が現役の頃は、せっかくアイデアが出てきても、重量とコストのバランスがとれず実現できないこともありました。「軽くて高出力だけど、こんな高いモーター買えないよ・・・」とか。また、コストが高い、制御が複雑になってしまう、そもそも扱えない、など理由はさまざまですが、今のロボコンのようにセンサー類を使って自動制御を行うロボットもほとんどありませんでしたね。
一方で、世の中にある技術を積極的に学び、それを取り入れようとする高専生たちの姿勢は今も昔も変わらないですね。「少しでも良いマシンをつくりたい」という情熱と、多種多様なアイデアを具現化する実行力はさすがです。もし自分が今、当時と同じことをやれと言われたら、ちょっと躊躇してしまうかも(苦笑)。

「ロボコン」が生活の中心だった。

昔、ある方がロボコンをやっている学生を「下校拒否」と表現したことがあります。私はまさしくそれでした(笑)。低学年の頃は遅くても日付が変わる前には帰宅していましたが、高学年になると、夏休みが明けたくらいからだんだんと帰宅時間が遅くなり、大会前の週末は家に帰らないことも。5年生の最後の年なんて、平日は風呂と朝食のために明け方に自宅に戻るだけ、週末は金曜の放課後から月曜の朝までぶっ通しでロボットづくりに没頭していました。都城高専史上、最もロボコン部室に寝泊まりしたのは私だと自負しております! 家族はどれだけ心配していたか・・・社会人になった今は、当時の親の気持ちが痛いほどわかるようになりました。

人生を変えた、モノづくりへの想い。

私は、「建築士になりたい」「高専ロボコンをやりたい」という2つの夢を抱いて都城高専建築学科に入学しました。こんなこと言うと怒られそうですが、入学した当時は、バイクにもクルマにもまったく興味はなく、ASIMOのような二足歩行ロボットにも特に関心がありませんでした。ただ、自分の手でなにかをつくるのは幼い頃から好きで、工作や裁縫、料理などは得意でしたね。
モノづくりは好きなのに、クルマやバイクなどのモビリティにはまったく興味がない。そんな私がHondaへ入社しようと思ったのは、一台のバイクとの出会いがきっかけでした。通学用の原付を買おうとしたものの、「普通のスクーターじゃ面白くない、もっとカッコいい乗り物が欲しい!」とこだわって探し、Hondaの「Jazz」を購入したんです。ロボコンを通してゼロからモノをつくる楽しさを知っていくのと同時に、お気に入りのバイクを通して、Honda創業者の想いや、脈々と受け継がれているモノづくりへの情熱を知るようになりました。そして、「Hondaへ入って、モノづくりをするんだ!」と決めたんです。その夢を叶えるため、建築学科を卒業してから別の専門学校へも通いました。人から見たら、すごい回り道だと驚かれるかもしれませんね。私が入社できたのも、「5年間も建築を勉強したのに、そこまでしてHondaに・・・」と、面接官が同情してくれたからではないかと思っています(笑)。

写真は2003年に製作した都城高専A「V-TECH」と
九州地区大会の模様

〈ロボコン出場を目指す全国の高専生へ〉
皆さんがロボコンに挑戦しようと思ったきっかけはさまざまだと思います。
そして、「ロボットづくり」と一言で言っても、設計、製作、管理、調達・・・
非常にたくさんの作業や役割が必要なんだな、と実感していることでしょう。
今はあまりピンと来ないかもしれませんが、社会に出てから、良い意味で「とんでもないことをしていたんだな」と実感する時が必ず来ます。私も、今はモノづくりの現場から離れてはいますが、
「とんでもないこと」をやっていた5年間の経験がとても役に立っています。
ロボコンへの挑戦は、厳しくて大変です。投げ出したくなることもあるでしょう。
でも、「つくることが楽しい」という気持ちは、皆さん同じだと思います。
作り手である皆さんが楽しめなければ、決して良い作品は生まれません。
成功することもあれば、失敗することもあります。私は失敗ばかりでしたが・・・(苦笑)。
難しく考えすぎず、熱い気持ちを真正面からぶつけて、色々なチャレンジをしてください。
今の失敗も成功も、すべてが“自分”になります。皆さんのさらなる飛躍を期待しています!