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1997年 ワールドスーパーバイクでは、ジョン・コシンスキーがチャンピオンに輝き、全日本ではルーキー武田雄一が、ランキング3位と大健闘。鈴鹿8時間耐久では、伊藤真一と宇川徹が悲願の日本人ペア優勝を達成。ホンダRVF/RC45は、次々と目標をクリアしていった。だが、ホンダのSB開発スタッフは、今後のレースを睨みながら、次代のSBマシン誕生に向けて動き出していた。
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HRCと朝霞研究所の初共同開発マシン これまでのレースなどを踏まえ、解析する中で、Vツインの構想が具体化する。市販公道車(SP-1)を造る開発企画段階から、VTR1000SPWのプロジェクトが組まれ、HRC(ホンダレーシングコーポレーション)と市販車を造るホンダ朝霞研究所が、共同開発するという初の試みが実行されることになった。開発人には、「量産車を造る以前に、スーパーバイクで勝つためのレーサーをまとめる」という使命が課せられた。だが、まさしく、ゼロからのスタートで、ワークスマシンのベースがない中で、朝霞研究所のエンジニアが初期の仕様を決めて、ワークスライダーがテストするということが繰り返された。目標は鈴鹿で、2分10秒台。最終目標は、99年デビューレースに、2分07秒台だった。
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試行錯誤 先行試作車は、2分10秒に届かず、「全てを直さなければナンバー1にはなれない」と小型で馬力を上げたエンジンを目標に、車体操安性にHRCのノウハウを生かした。基本はレーサー、その後に公道を走るための補器具を付けるというコンセプトで遂行。98年秋までに、100仕様ものフレームを壊す。タンクやシートは、ワークスライダーの意見を反映。カウルはNSR500のものを装着。空気抵抗を最小限に抑えた。フレームのヘッドパイプにダクトを通す新技術を入れた新生Vツインレーサーは、98年11月、2分9秒台を記録、目標を達成する。
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2000年 春 デビュー 99年デビューを目指したが、目標到達レベルに達していなかったために、更に1年の時間が開発に掛けられた。テストに次ぐ、テストを重ね、5回の8耐優勝、3回の全日本タイトル。WSBタイトルを勝ち取り、まだ、勝利を狙う戦闘力のあるRVF/RC45に変わって、VTR1000SPWが、送り出された。オフの鈴鹿テストで、遂に2分07秒台を記録した。
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トータル戦闘力の向上 RVF/RC45の足回りを基本コンセプトに柔軟性を上げ、エンジンは、低速回転からピークパワーまで、どの回転域でも、ライダーが扱いやすいものに仕上げ、タイヤにやさしいエンジンとなり、剛性バランスを上げ、車体をコンパクトにデザインしたことから、空気抵抗を少なくし、ライダーにとっては、取り回ししやすくなり、トータルな戦闘力アップを成し遂げた。
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全ては8耐へと続く。 WSBでは、開幕勝利、ル・マン24時間耐久で5年ぶりの優勝を飾りVTR1000SPWは、スプリントでも耐久でも速さと耐久性を証明。そして、全ての開発テスト、レースデータは、すべて積み上げられ、8耐への戦いへと生かされる。
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