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第2話第2話-2
朝霞研究所の雰囲気に慣れてもきた'75年11月、発足したばかりのレーシングマシン開発部門・HERT(ハート)プロジェクトへの配置転換が告げられた。鈴鹿時代もラグビー一途だった私は、サーキットの近所にいながらも2輪レースなどを見に行くこともなく、正直に「2輪レースは見たこともありません。開発者として適任ではないと思います」と言ったが、マネージャーの浦野さんが「大丈夫。燃える眼をして仕事をしているお前ならできる」というので断れなくなってしまった。しかしレーサーの設計なんて、いったいどこから手をつけたらいいのやらと、とまどうばかりだった。

当時のホンダは4輪の排気ガス対策に力を入れていて、レース活動は中断中。技術研究所でも社内チームの『ブルーヘルメット』が小規模でやっている活動がレースのすべてだった。レーサーについての情報を持っている人などもいず、なにをきっかけにレーサーの設計をすればいいのかすらわからない。とにかく本を読むことから始めたものの当時の2輪誌はレース記事の扱いも小さく、レーサーの構造の情報などほとんど載っていなかった。それでも「どんなに小さな記事でも見逃すまい」と何冊もむさぼるように読んだものだった。

また和光製作所のレセプションコーナーに展示されていた'67年のWGPチャンピオンのロードレーサーを見に行き、フレームワークやパイプサイズを調べたり溶接の仕方などをノートに書き写したりした。あまりにも長時間だったため、受付の女性に「外部のお客様が出入りしますのでできるだけ短時間で」と注意もされたが、どんなに嫌な顔をされてもいつまでも見ていたものだった。

設計のための時間はどんどんすぎていくが、あせる気持ちでドラフターに向かっても、どうしても設計図を書き始めることができない。そんな時に設計の手助けをしてくれたのも浦野さんだ。「10年前の4気筒350ccレーサー、RC174をベースに1000ccエンジンに合わせればいい」といいながら、設計レイアウト図を描いて見せてくれたのである。「どうしてそんなにスラスラと描けるんだろう」とビックリしたが、その図面を見てふっきれたのか、ようやく線が引けるようになった。当時はまだ名前もついていなかったが、こんなふうにRCB1000の設計はようやくスタートしたのである。


そのアドバイスどおりにRC174を参考にホイールベースを決め、前・後輪分布荷重などを設定。フレームボディの設計では、ヘッドパイプまわりの剛性確保のためにできるだけきれいなトラス構造を形成し、パイプは曲げたりへこまさないでストレートに使うことに配慮。エンジンを囲む部分はできるだけ小さなループを描くようなパイプワークにする…というように、少しずつ設計アイデアが浮かぶ。さらにタンクの素材は量産車では使わないアルミニウムとし、内部にバッフルプレートを装着。このバッフルプレートは急加減速やコーナリング時に生まれるタンク内部のガソリン揺動によってハンドリングに影響が出ないようにするためのもの。レース界では常識らしいが教えられるまで知らずにいた。

また耐久レーサーはレース中にガソリン補給が必要なため、航空機で使うクイックチャージバルブをヨーロッパから現品を取り寄せて構造を研究してタンク側面に取りつけた。給油口がガソリンレベルよりも下になるので心配だったが、テストでは予定通りの機能が発揮されたし、漏れなくてよかったと胸をなで下ろしたものだ。一時が万事このような感じで、自分の知らないレース界の常識をひとつずつ覚えていった。

自分の担当ではなかったが、エンジンは量産のCB750フォアをベースに941ccに排気量アップをしてDOHC化。さらにカム駆動をギヤトレーン化するなどして110psを発揮。少しずつ全体がひとつにまとまっていった。


設計陣の6人中、私を含めた4人にはレーサー開発の経験もなかったし、ときどき浦野さんが設計のアドバイスをしてくれた以外に技術や進め方などを伝承されたことはなかった。自分で集めた情報と自分なりのやりかたですすめていき、経験豊富な秋鹿監督の指示で仕様を決めていった。私としてはこの時点では勝てるマシンを開発するという意識などはまったくなく、「レースのアクシデントは死に直結。自分の設計ミスでライダーを死なせてはいけない」と、どんな些細なことにも全神経を張り巡らせて設計を進めたものだった。
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設計室のみんなと富士5湖方面にツーリング。2番目を走るのが私。バイクはCB350T。けっこうあちこち走りに行った
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バイクの開発はもちろん、乗るのも大好きだった。これは桶川でのエンデューロレースに出場したときの1枚。順位は忘れたが小さなトロフィーをもらったことを覚えている。ぬかるみの中のレースで悪戦苦闘したが楽しかった
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●RC174
'67年までにWGP350ccクラス6連覇を達成したRC174。この年以降ホンダのワークス参戦はとりやめ。このマシンのディメンションなくしてRCBの誕生はなかったといえよう
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'76年4月13日に開かれた、H.E.R.T.の壮行会。前列右から4番目が秋鹿監督。2列目右から3番目が私で、その右隣りは同じ車体設計の原国隆さん。さらにその右は後に社長になる久米専務。後列右から6番目のF1で有名な中村良夫氏など、そうそうたるメンバーである
●H.E.R.T.プロジェクト
ホンダでは'67年当時から厳しくなった4輪車の排気ガスの規制に対応するため、2輪のレース活動を中断して全社・全精力を傾けていた。その成果が実り、'72年に世界の自動車メーカーに先駆けてアメリカのマスキー法に合格する技術=CVCCを開発することに成功。これを契機に再び2輪のレース活動を望む声が大きくなり、'75年にワークス体制でのレース活動の再開が決定した。その舞台には、当時ヨーロッパで盛んだった、FIM公認『ヨーロッパ耐久選手権』が選ばれ、マシンの開発と運営を行う組織としてH.E.R.T.(Honda Endurance Racing Team)プロジェクトが発足した。

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