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「バイクの設計をしたい」という気持ちを常に持っていれば、必ず道は開けるもの…。
本田技術研究所朝霞研究所でホンダのフラッグシップと呼べる多くのバイクの開発に携わった、ひとりの設計者が語る「開発ストーリー」。1回目は入社して最初のバイクを設計するまでの長い道のりを語っていただこう。
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第1話第1話-1
私とバイクとの関わりは中学生の時に始まった。当時、静岡県浜松市で落花生の仲買いをしていたオヤジが、ある日のこと中古のポンポン(バイク)、スズキ・コレダ90を買ってきて、得意気にエンジンをかけて見せたのだった。はじめて後ろに乗せてもらった時にそのスピードにドキドキした。そのうち私にも乗り方を教えてくれ、恐る恐る走らせてみた私だったが、スロットルひとひねりでスーッとスピードが出る乗り物はなんとも魅力的に思えた。

はじめのうちはオヤジのいる時にしか乗らせてもらえなかったが、そのうち隠してあったキーをナイショで持ちだして勝手に乗るように。キックのコツをつかむのに苦労したが、坊主頭の短い髪が逆立つような感覚や、目の両の端が引っ張られるようなスピード感は、これまでに経験したことのない別世界で、すごくワクワクしたのを今でも覚えている。


私が高校にあがった頃、おやじのバイクはコレダからホンダのベンリイ125に変わった。もちろん免許がない私なので本来は乗れないのだが、用事を作ってはおやじ黙認でバイクを持ちだし、そのたびにどんどん走る快感に引き込まれていった。また、このままどこか知らない遠い所まで走っていってしまえそうな開放された気分だった。

高校は地元の工業高校の機械科。小さい頃から小遣いを貯めて鉱石ラジオやトランジスタラジオのキットを買ったり、オヤジのバイクの手入れを手伝ったりするような機械好きだったので迷わず決めた。授業の中では強度計算をしたり、寸法を自分で決めて新しい物を作り出す『機械設計』という科目が一番好きだった。
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はじめて山中家にバイクがやってきた12歳の頃。撮影日は1957年8月12日のこと。バイクのスピードに驚かされ、そして自分の世界が大きく広がってゆく気分にさせられた
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ホンダに入社直後の1枚。第2組立課に配属された。前列右から5人目が私
そんなバイク好き、機械好きな私だけに就職先の第一志望は“バイク会社”。私の住む浜松地方にはホンダ、ヤマハ、スズキなどのバイクメーカーがあったし、その協力会社は無数。中でもホンダはこれからどこまでも発展していくような勢いを感じさせるメーカーだった。町にはたくさんのスーパーカブが走っていたし、CB72にはいつか乗りたいと憧れた。よそのメーカーのバイクは知らなくてもホンダ車なら全部知っているというくらいのホンダファンでもあったので、いつしか『ホンダでバイクの設計がしたい』と思うようになっていった。


私の通った浜松工業高校からは例年数名がホンダに就職していたが、なぜかいつまで待っても新入社員募集の通知が来なかった。私同様にホンダ志望だった同級生もいたが、待ち切れずに他社に就職していったし、先生もいろいろ就職先を紹介してくれたが、自分としては“それでもホンダに入りたい”と最後まで待った。だがその年はやっぱり募集は来なかった。とりあえず遊んでいるわけにもいかず就職したが、これまでにも新聞でホンダの“正規社員募集”を目にしていたので、それに賭けてみることにした。

そして8月、待ちに待った募集広告を見つけてすかさず応募。合格通知は電報で配達すると知らされていたが、配達が待ち遠しく、受け取った時には本当にうれしかった。

「ヤッタ。ついに本田技研に入社できる!」

入社したからといってすぐに設計者の道が開けるというわけではなかったが、目標への第一歩には変わりなく、とても晴々とした気持ちになっていた。


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