秋になると、産卵のために遡上する大魚たちを、
銀山湖に暮らす人々は優しく見つめる。
そこには、二度と「貧山湖」と呼ばせないという人々の強い想いがあった。
銀山湖に暮らす人々は優しく見つめる。
そこには、二度と「貧山湖」と呼ばせないという人々の強い想いがあった。

新潟県魚沼市と福島県南会津郡檜枝岐村にまたがる銀山湖は、阿賀野川水系只見川の上流部に建設された奥只見ダム(竣工:1961年)によって誕生した人造湖だ。ダムの堤高は157メートル。その手前に約6億トン(有効貯水容量4,58億トン)の水が蓄えられる。調べてみれば、この6億トンという総貯水容量は、ダム湖として国内第二位の規模になるそうだ(一位は岐阜県の徳山ダムで、総貯水容量は6.6億トン)。
この巨大な人造湖は、大イワナ、大ニジマスが棲息する湖として釣り人たちにその名を知られているが、はじめて大イワナの姿が目撃されたのは、1962年(昭和37年)のことだった。
この巨大な人造湖は、大イワナ、大ニジマスが棲息する湖として釣り人たちにその名を知られているが、はじめて大イワナの姿が目撃されたのは、1962年(昭和37年)のことだった。

広葉樹などの木々に覆われた銀山湖の眺めは優しく美しい。ところが、湖を囲う山々の尾根へと続く斜面は、険しく急だ。意外なのは、釣りの聖地のように言われるこの湖に、釣り糸を垂れながら歩ける周遊道がないことだ。ダム建設のために拓かれ、後に奥只見シルバーラインと呼ばれるようになった道は、そのほとんどがトンネルだし、湖畔の小さな町を抜けて、となりの福島県へと続く国道352号線も、屈曲を繰り返しながら山肌を駆け上がり、行けば行くほど湖面が遠ざかっていく。眺望は素晴らしいのだが、釣り人が心躍らせる道ではない。
では、どうやって釣りをするのか。答はボートだ。ボートで湖上の人となって、タナを探るのだ。そのためもあって、銀山湖には多くのレンタルボートが用意されている。
では、どうやって釣りをするのか。答はボートだ。ボートで湖上の人となって、タナを探るのだ。そのためもあって、銀山湖には多くのレンタルボートが用意されている。


湖畔の銀山平に温泉が湧出したのは1992年(平成4年)のことで、2002年(平成14年)には6軒の旅館の共同運営によって、「白銀の湯」という温泉センター(日帰り温泉施設)が開設されている。村杉という旅館もその1軒だ。
釣り宿としても知られる村杉は、10隻のレンタル用の和船を所有している。その管理をする村杉ご主人の、佐藤洋一さん(63)が説明してくれた。
「船外機はHondaの4ストローク船外機を使っています。燃費が抜群にいいですからね。その分、お客さんに安く乗ってもらっています」
レンタル料をうかがえば、HondaのBF9.9を搭載した20フィート和船が、1日借りて燃料代込みで1万800円。安い。この料金で、日がな一日釣りができるのだから嬉しくなる。それにBF船外機の静粛性は、音に敏感な湖の魚を追うのに適している。
釣り宿としても知られる村杉は、10隻のレンタル用の和船を所有している。その管理をする村杉ご主人の、佐藤洋一さん(63)が説明してくれた。
「船外機はHondaの4ストローク船外機を使っています。燃費が抜群にいいですからね。その分、お客さんに安く乗ってもらっています」
レンタル料をうかがえば、HondaのBF9.9を搭載した20フィート和船が、1日借りて燃料代込みで1万800円。安い。この料金で、日がな一日釣りができるのだから嬉しくなる。それにBF船外機の静粛性は、音に敏感な湖の魚を追うのに適している。




佐藤さんが小学校に上がるころには、すでに目の前に銀山湖があった。
当時の鮮烈な思い出を語ってくれた。
「湖ができて間もないころです。大イワナが釣れるようになりましてね。60センチ以上の大物です。なかには80センチを超える超大物も釣れていました。驚きましたよ。すでに幻の魚とも言われていた魚の大物が出現したんですから」
そしてその噂は全国に広まり、大魚の爆釣を狙う多くの釣り人が銀山湖にやってきた。
その結果、心無い釣り人が湖を跋扈したとまではいわないが、乱獲によって魚影が薄くなり、「貧山湖」という不名誉な名だけが残った。
このままでは銀山湖の魚が絶滅してしまうと、危機感を持った有志が立ち上がったのは1974年(昭和49年)のことだった。その動きは「奥只見の魚を育てる会」の発足につながり、これまで放流事業や関係機関と禁漁時期の調整を図るなど、様々な活動を行ってきた。密漁対策として監視小屋を設置したのも活動の一環だ。
現在、禁漁期間は10月1日から翌年4月20日までと決められ、さらに銀山平を流れる北ノ又川の上流部は、通年禁漁が決められた。その限りなく澄んだ流れには、秋になると産卵遡上する大魚たちの姿が多く見られるようになった。「蘇れ、湖の魚たち」そんな人々の想いがそこにはある。これが、今なおわれわれが、太公望を気取って銀山湖という仙境に遊べる背景である。
当時の鮮烈な思い出を語ってくれた。
「湖ができて間もないころです。大イワナが釣れるようになりましてね。60センチ以上の大物です。なかには80センチを超える超大物も釣れていました。驚きましたよ。すでに幻の魚とも言われていた魚の大物が出現したんですから」
そしてその噂は全国に広まり、大魚の爆釣を狙う多くの釣り人が銀山湖にやってきた。
その結果、心無い釣り人が湖を跋扈したとまではいわないが、乱獲によって魚影が薄くなり、「貧山湖」という不名誉な名だけが残った。
このままでは銀山湖の魚が絶滅してしまうと、危機感を持った有志が立ち上がったのは1974年(昭和49年)のことだった。その動きは「奥只見の魚を育てる会」の発足につながり、これまで放流事業や関係機関と禁漁時期の調整を図るなど、様々な活動を行ってきた。密漁対策として監視小屋を設置したのも活動の一環だ。
現在、禁漁期間は10月1日から翌年4月20日までと決められ、さらに銀山平を流れる北ノ又川の上流部は、通年禁漁が決められた。その限りなく澄んだ流れには、秋になると産卵遡上する大魚たちの姿が多く見られるようになった。「蘇れ、湖の魚たち」そんな人々の想いがそこにはある。これが、今なおわれわれが、太公望を気取って銀山湖という仙境に遊べる背景である。


作家の開高健さん(1930〜1989)が、アラスカを振り出しに世界各地を釣り歩いた「フィッシュ・オン」という記事の執筆のために、銀山湖を訪れたのは1970年(昭和45年)のことだ。
この取材を通して、銀山湖の自然に魅せられた開高さんは、同じ年の6月から8月まで、村杉の前身である釣り宿の村杉小屋に滞在している。正確に言うのなら、湖畔の村杉沢にあった村杉小屋の隣には、渡り廊下でつながった新潟県の林道建設事業の事務所があったが、開高さんが再訪した当時、すでに林道は完成し、使われなくなっていた。彼はその事務所の2階に寝泊まりし、小説「夏の闇」の構想を練り、食事時になると村杉小屋に降りてきて、佐藤さんのご両親の進さんとフジイさんの手作りの料理を楽しみ、焼酎をやった。そのとき開高さんが舌鼓を打った「開高めし」や「木の芽の巣籠り」は、いまも名物料理として伝わり残っている。それがどんな料理であるか、次回ご紹介する。
この取材を通して、銀山湖の自然に魅せられた開高さんは、同じ年の6月から8月まで、村杉の前身である釣り宿の村杉小屋に滞在している。正確に言うのなら、湖畔の村杉沢にあった村杉小屋の隣には、渡り廊下でつながった新潟県の林道建設事業の事務所があったが、開高さんが再訪した当時、すでに林道は完成し、使われなくなっていた。彼はその事務所の2階に寝泊まりし、小説「夏の闇」の構想を練り、食事時になると村杉小屋に降りてきて、佐藤さんのご両親の進さんとフジイさんの手作りの料理を楽しみ、焼酎をやった。そのとき開高さんが舌鼓を打った「開高めし」や「木の芽の巣籠り」は、いまも名物料理として伝わり残っている。それがどんな料理であるか、次回ご紹介する。