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ゴルフの雑学・マメ知識ゴルフ偉人伝「ベーブ・ザハリアス」
〜史上最強の女性ゴルファー

2013.04.26

最近ゴルフ場で女性を見かけることが多くなりました。というより、女性がいて当たり前、場合によっては男性より多いようなときもあります。カラフルなウエアに身を包んだ女性がはつらつとプレーする姿は、場が華やかになってよいものですね。

日本のプロゴルフ界でも女子が元気でファンも増えています。世界との実力差が開いている感のある日本の男子プロに比べ、女子プロは宮里 藍選手を筆頭に積極的に海外に挑戦する選手が多く、世界のトップ選手たちと互角の戦いを繰り広げています。また昨年、オーガスタナショナルに初の女性メンバーが誕生するなど、ゴルフ界における女性の台頭には目を見張るものがあると言わざるを得ません。

さて、女性ゴルファーを語る上で外せないのがベーブ・ザハリアスという選手ですが、みなさんはご存じでしょうか? おそらく知らない方がほとんどだと思いますが、ベーブ・ザハリアス、本名ミルドレッド・ディドリクソン・ザハリアスは女性ゴルファーの先駆けともいえる人物で、AP通信が選ぶ20世紀の偉大なアスリートランキングでは9位に数えられているアメリカの国民的英雄です。

ベーブ・ザハリアスは1911年、テキサス州のポートアーサーという町で生まれました。両親はノルウェイからの移民で、父親は体を動かすことが生き甲斐の船大工、母親は有名なウインタースポーツの選手でした。その遺伝子を受け継いだ彼女は物心がついたころから運動が好きで、男兄弟たちに混ざってスポーツに興じるのが大好きな少女だったのです。野球で遊んでいたときに1試合で5本のホームランを放ったことから、当時のスーパースター、ベーブ・ルースにちなんで「ベーブ」というニックネームがつき、生涯その愛称で呼ばれることになるのです。

高校時代はバスケットボール部のポイントゲッターになり、アメリカ代表にも選ばれます。しかし彼女の才能はこれだけにとどまらず、野球、テニス、陸上競技、水泳、スケート、ボーリングなど、あらゆるスポーツ、いやスポーツに限らず歌や踊りも含めて、興味を持ったことならどんなものでもトップレベルのパフォーマンスをやってのけました。個人競技ではそれが顕著で、特に陸上競技では無敵。1932年のロサンゼルスオリンピックでは陸上競技3種目に出場し、やり投げと80メートルハードルで金メダル、走り高跳びでは銀メダルを獲得するなど、天賦の才能を世界中に見せつけたのでした。

オリンピックの後、ボードヴィルの興業を行ったり、フィラデルフィア・フィリーズで1イニング投げたりと、多方面で活躍した彼女ですが、1935年にいよいよゴルフを始めます。持ち前の運動神経からめきめきと上達し、1938年にはロサンゼルスオープンに出場。惜しくも予選落ちでしたが、7年後の1945年には同じ試合で見事予選を通過。史上初めて、男子レギュラーツアーの予選を通過した女性ゴルファーとなったのです。そしてこの記録はいまでも破られていません。

その勢いをかって彼女は全米、全英の両オープンに出場する意向を表明しますが、それが思わぬ波紋を引き起こすことになります。男子の領分を侵されることを恐れたのか、両オープンは彼女の出場に難色を示したのです。全米ゴルフ協会は「全米オープンは男子のトーナメントである」と声明を出して拒絶。R&Aは態度をはっきりさせませんでしたが、全英オープンの出場資格には「男子に限る」という制限がなく、こちらは出場の可能性が残っていました。しかし世間を巻き込んだ一大論争に嫌気が差したザハリアスは自ら出場を辞退。男子メジャートーナメントへの挑戦は夢に終わったのです。

「もしも男子メジャーに出場したら、本当に勝ってしまうかもしれない」世間にそう思わせるほどの実力を持っていたベーブ・ザハリアス。スウィングの映像を見ると男子プロと変わらぬスピードを持っていた彼女ですから、女子ゴルフの世界で向かうところ敵なしだったのは当然といえば当然でしょう。1942年にアマチュア資格を得ますが、アマチュアの試合では17連勝を達成。1946年に全米女子アマ、1947年には全英女子アマに優勝してプロに転向すると、1950年と1951年にLPGA賞金王のタイトルを獲得。全米女子オープンには3度(1948年、1950年、1954年)勝ちました。

私生活では1938年にプロレスラーのジョージ・ザハリアスと結婚して幸せな家庭を築き、誰の目にも順風満帆な人生を歩んでいたように見えた彼女を突然不幸が襲います。それは1953年のこと、結腸直腸癌に蝕まれていることが判明したのです。しかし彼女は負けませんでした。病気と闘うことを決意し手術を受けます。2度と試合に出られなくなる恐れがありましたが、翌年の全米女子オープンに優勝し、見事カムバックを果たしたのです。2位に12打差をつける圧勝でした。

その勢いのまま1954年に5勝を挙げ、翌1955年にもシーズン途中までに2勝を挙げるなど、再びベーブ・ザハリアスの時代が来ると誰もが思ったのもつかの間、癌が再発していることがわかり、8試合を残して再び療養生活へと戻るのです。そして1956年の9月27日、彼女は45歳の若さで帰らぬ人となりました。

女性アスリートの可能性を広く知らしめ、LPGA(全米女子プロゴルフ協会)の設立メンバーでもあるベーブ・ザハリアス。彼女がいなければ女子ゴルフが現在のような隆盛を迎えることはなかったかもしれません。日本ではほとんど知られていませんが、彼女は紛れもなくアメリカ人にとってのヒーローであり、その名を知らぬ者はいないのです。

ベーブ・ザハリアス
(1911~1956)

1932年のロサンゼルスオリンピックではやり投げと80メートルハードルで金メダルを獲得。その後ゴルフに転向し女性ゴルファーの第一人者となる。LPGAツアー通算41勝、メジャー10勝。1951年にゴルフ殿堂入り。男子ツアーの予選突破を果たした女性ゴルファーは後にも先にも彼女だけだ。


Honda GOLF編集部 小林一人

Honda GOLF編集長のほか、ゴルフジャーナリスト、ゴルフプロデューサー、劇画原作者など、幅広く活動中だが、実はただの器用貧乏という噂。都内の新しいゴルフスタジオをオープンし、片手シングルを目指して黙々と練習中。

Illustration by Takashi Nemoto

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