マメ知識

ゴルフの雑学・マメ知識ゴルフ偉人伝「アリソン」
〜アリソンバンカーの生みの親

2011.11.30

不思議なもので、ある程度ゴルファーとして円熟してくると、興味の矛先がコースデザインに向かうものです。若い頃やはじめたてのころはスイングやギア、それからスコアのことで頭がいっぱいなのですが、それなりにボールを操れるようになり、かつ自分の限界が見極められる年齢になると、造形の美しさや設計家の意図などを汲み取りながらプレイするようになります。ラウンド中に「このホールの設計は上手いね、さすが井上誠一」などとブツブツ言っているベテランの御仁、皆さんの周りにいませんか?

さて、コースデザインといえば米ゴルフマガジンが毎年発表するトップ100ランキングが有名ですが、2011年の世界のトップ100コースには日本のコースが3つランク入りしていて、廣野ゴルフ倶楽部(40位)、川奈ホテル富士コース(76位)、東京ゴルフ倶楽部(96位)という顔ぶれです。このうち廣野と川奈を設計したのは英国人のチャールズ・ヒュー・アリソンで、東京ゴルフ倶楽部を設計した大谷光明や井上誠一にも大きな影響を及ぼすなど、「日本のコース設計の父」とも呼べる設計家です。

こういうと、さぞかしアリソンは親日家で「日本通」だったのだろうと思われるかもしれませんが、実はアリソンが来日したのはたった1度で、しかも滞在したのはほんの2か月半でした。親日家だという記録も残っていません。1930年(昭和5年)の12月、アリソンは東京ゴルフ倶楽部の招きで来日すると、コース予定地の埼玉県朝霞を視察後、帝国ホテルに10日間籠って東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの図面を書き上げたといいます。方眼紙に描かれたその図面の出来栄えは素晴らしいもので、東京倶楽部の招致担当者だった大谷光明やメンバーの赤星六郎ら、日本でコース設計に携わっていた人たちを深く感心させました。またアリソンの設計プランは灌漑施設が考慮されていたり、土壌研究など先端技術に裏付けられたものであり、そのこともまた、当時日本のゴルフ界をリードしていた人たちに、「この人なら」という信頼感を植え付ける理由となったのでした。

しかし図面を見るまで倶楽部の人たちは大きな不安を抱えていたことでしょう。なぜなら当初は世界的に活躍していた大御所ハリー・コルトを呼ぶつもりだったのです。しかしコルトは高齢を理由にこの招きを辞退し、代わりに共同経営者のアリソンを来日させました。アリソンの手腕は未知数だったので、果たして高額な設計料に見合う仕事をしてくれるのかどうかの保証はなく、一種の賭けだったのです。

大谷光明は京都を案内し、アリソンの芸術的センスをテストしたというエピソードも残っています。特に説明することもなく桂離宮、西郊、北郊の寺院の庭、修学院離宮の庭などを一通り案内した後、「どこが一番良いと思いましたか?」と質問したところ、アリソンは即座に「桂離宮だ」と答え、その確かな鑑識眼に大谷は安心したのです。ちなみにアリソンバンカーとはアリソンが茅葺屋根にインスピレーションを受けて造形したもので、バンカーに芝のマウンドが垂れ下がるようにアゴが造形されているもののことを言います。よく誤解されているようですが、深いだけのバンカーはアリソンバンカーではありません。

朝霞コースの図面を完成させた後、アリソンは当時の大商社鈴木商店の元ロンドン支店長だった高畑誠一の依頼を受けて関西に渡り、廣野ゴルフ倶楽部を設計するのですが、その途中に立ち寄ったのが川奈ホテルで、ここでもオーナーの大倉喜七郎男爵に富士コースの設計を依頼されるのです。川奈ホテルではすでに大谷光明設計の大島コースが営業を開始しており、赤星六郎によって富士コースの設計も済んでいましたが、大倉男爵の鶴の一声でアリソン設計に変更されたのです。この判断は正しく、アリソンが川奈ホテルの一室に籠って引いた図面を元に造成された富士コースは「東洋のリビエラ」と呼ばれ、昭和36年に第3回世界アマチュア選手権が開催されたのを機に世界的に注目されるようになりました。

近代的コース設計技術を日本にもたらしたアリソン。彼の作り出すコースの面白さはルーティングと造形美にあるのではないでしょうか。ルーティングとはどのように18のホールを配置するかという設計の基本となるもので、これによってプレイが味わい深くもなれば単調にもなるのです。アリソンは予定されていた富士コースのルーティングを根本から見直し、海に対峙しながら打ち下ろす印象的な1番ホールが生まれたのでした。そして富士コースや廣野に散見される幾重にも重なるマウンドは、景観美を演出すると共に、技量レベルによって異なる複数の攻略ルートを作り出しています。

東京ゴルフ倶楽部朝霞コースはもうありませんが(現在の東京倶楽部は大谷光明設計)、川奈、廣野以外にも霞が関東コース、鳴尾ゴルフ倶楽部、茨木カンツリー倶楽部東コースの改造アドバイスも行い、そのすべてが日本を代表する名コースになっているなど、日本のゴルフコースの歴史において重要な仕事を成し遂げたアリソン。しかし冒頭にも言ったように、日本に滞在したのはほんの2か月余り。2度と日本の地を踏まなかったため、完成したコースを見ることはありませんでした。

富士コースの用地を見たアリソンは大いに感性を触発されが、最初の印象が薄らぐのを待つため、あえて3日間は設計にとりかからなかったという。

Charles Hugh Alison
1882~1952

オックスフォード大学で造園学を学んだアリソンは卓越したゴルフプレイヤーでもあった。卒業後、世界的に活躍していた設計家ハリー・コルトと出会い共同で事務所を設立。コルトの右腕として数々の名コースの設計にかかわる。引退した後は南アフリカで余生を送った。

絵と文
Honda GOLF編集部 小林一人

Honda GOLF編集長のほか、ゴルフジャーナリスト、ゴルフプロデューサー、劇画原作者など、幅広く活動中だが、実はただの器用貧乏という噂。都内の新しいゴルフスタジオをオープンし、片手シングルを目指して黙々と練習中。

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