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AM 8:00
奥日光でルアーやフライの歴史に触れ、ヴィンテージな道具でマスと遊ぶ。
今回のテーマは奥日光でちょっと贅沢な水辺のひととき。
さぁ、どんなドラマが待っているでしょうか。
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落合洋平さん
落合洋平さん
『つり人』の編集部員として全国を飛び回る25歳。ハゼからコイ、コチからフナまで何でもOK。"魚を呼ぶ男"は今回も奇跡を起こすか?
三浦修さん
三浦修さん
雑誌『つり人』、『Basser』の元編集長で、現在は新聞雑誌の執筆や広告のコピーライターとして活動。釣りより食べたり飲んだりが好き?
松邨龍亮さん
松邨龍亮さん
『FlyFisher』編集部の一員として活躍中だが、かつてはルアーの門を叩いたことも……。そこで今回は愛用のベイトロッドを持参で参戦
丸沼で産声をあげた日本のマス釣り

丸沼で産声をあげた日本のマス釣り

明治の帰国子女が持ち帰ったフライフィッシング

日本でルアーやフライフィッシングが一般的に楽しまれるようになったのは1970年代。日本初のスポーツフィッシングの組織であるJLAA(日本擬似餌釣連盟)の発足が1969年のことだから、60年代半ばにはそういった下地が各地で生まれつつあったのだろう。同会のウェブサイトにも、1968年に関西や関東のアングラーが銀山湖で会した際に、組織の発足が持ち上がったとある。

しかし、そのベースとして終戦後に進駐軍たちが芦ノ湖などをはじめとした占領下の日本各地で欧米流の釣りを楽しんでいたのは周知のとおりで、そこで彼らと交流した人々がその後試行錯誤を繰り返したであろうことは想像に難くない。ちなみに、今でも各地に「国際」と名前の付いたマス釣り場が見られるのはその時代の名残。極東の島国へ送られてきた米兵たちを、日本のマス釣りが癒していたのである。

さて、昭和の半ば以降、急速に広まっていった日本のフライ&ルアーだが、その源流はさらに年月をさかのぼることができる。
明治維新によって広く欧米に門戸を開いた日本では、その後、上流階級の子弟が次々に留学へと旅立っていった。欧米の文化、技術を学び、一刻も早く日本がそれに追いつくことを願う、向学心に燃えた若者たちである。
しかし、彼らが持ち帰ったのは政治や経済、科学の先進情報だけではなかった。欧米上流階級の生活様式や価値観、余暇の過ごし方も身につけて帰国したのである。
趣味や遊びを通じて友好を深め、それを事業や政治に活かすという流れは、古今東西珍しいものではないが、その子弟たちは日本になかったフライフィッシングやゴルフなどを嗜むようになっていたのだ。鹿鳴館でダンスを踊りながら文明国であることをアピールしたり、各国外交官との交遊を図ったのは有名な話だが、こういった趣味などが果たす役割も見逃すことはできない。
かつて奥日光は上流階級の社交の場だった。皇族、華族、政財界人、在日大使館関係者が欧米流にひと夏のバカンスを楽しんだのだ。写真は昭和10年頃、竜頭の滝壺で釣りを楽しむ三笠宮殿下(さかなと森の観察園蔵)
かつて奥日光は上流階級の社交の場だった。皇族、華族、政財界人、在日大使館関係者が欧米流にひと夏のバカンスを楽しんだのだ。写真は昭和10年頃、竜頭の滝壺で釣りを楽しむ三笠宮殿下(さかなと森の観察園蔵)
そんな日本の上流階級の人々が奥日光の地にマス釣りの桃源郷を見出した。丸沼である。明治時代初頭、すでにニジマスなどの養殖、放流が行なわれていた同湖は、周囲を豊かな緑で覆われ、その清冽な湖水は水源をほぼ湧水に依存という恵まれた環境にあった。海抜千mを優に超すその気候は夏でもさわやかで、高温多湿の首都東京に暮らす彼らにとっては絶好の避暑地でもあった。
後の外務大臣加藤高明や鍋島桂次郎は、ここに丸沼鱒釣会を発足させ、日本におけるマス釣りの歴史が幕を開けたのである。

奥日光でルアーやフライの歴史に触れる

まさに、その高温多湿の首都東京。35℃を優に超す連日の残暑の中、いつものように神保町の編集部では締切に追われる若手編集部員と、その尻を叩く山根編集長の姿があった。
「お盆進行を無事に終えたからって気ぃ抜くなよ!」厳しい声が響く。
とはいえ、レジャーに帰郷にと、ひと気がなくなった都心で、アイスをなめながらひたすらキーボードを叩く彼らの心中も察するに余りある。
「真夏の1ヶ月だけでもいいから、どっか、涼しい高原にでも編集部を移せたらいいんだけどなぁ」
そんなボヤキが松邨さんの口から洩れた瞬間…山根編集長の目がきらりと光った。
「あ~んだぁ? 高原に行きたいだと? いいじゃないの。行ってこいよ。で、こんどのミッションは高原だな」
「いいんですか? 軽井沢とか日光とか…あのあたりだったら、そろそろ秋の雰囲気が漂い始めて…」
松邨さんと落合さんの顔がぱっと明るくなる。
「日光といえば日本のマス釣りの原点だしな…丸沼鱒釣会に、西六番別荘…なっ?」と山根さんがふたりに問いかけた。
「なんですかぁ? その別荘がどうとか、西何番だとか」
すると、山根編集長の顔が一瞬引きつった。
取材中に、クロダイやマゴチ、大ゴイなどを釣り上げ「ひょっとして自分はもっているかも」と密かに思っている落合さん。今回も特大ニジマスを釣り上げると鼻息が荒い
取材中に、クロダイマゴチ、大ゴイなどを釣り上げ「ひょっとして自分はもっているかも」と密かに思っている落合さん。今回も特大ニジマスを釣り上げると鼻息が荒い
『FlyFisher』編集部に所属している松邨さんにとって、丸沼のニジマスはいわばホーム。同期の落合さんだけには負けられない。事前情報もばっちり仕入れてきたとか
『FlyFisher』編集部に所属している松邨さんにとって、丸沼のニジマスはいわばホーム。同期の落合さんだけには負けられない。事前情報もばっちり仕入れてきたとか
「ばかやろぅ。ハンス・ハンターとか東京アングリング・エンド・カンツリークラブとか知らねえのか! 昔の上流階級の男たちは、奥日光で釣りやヨットを楽しんだんだよ。じゃぁ今回は、その勉強も兼ねて奥日光で特訓だ!」
「……特訓ですか。でも、日光なら頑張りがいもあるってもんですね」
ふたりは御機嫌、少しも怯まない。
「かつて日本の貴族が楽しんだ場所だからな。ただ魚を釣るだけじゃなくて、すこし余裕のある釣りの楽しみ方も勉強してこい。開高健さんも丸沼が大好きだったというから、その時代のタックルやルアーで釣るっていうのもミッションに加えるか」

1970年代、多くの釣り人が開高健さんの釣り文学や紀行文に胸を熱くした。そして、この文豪も丸沼に心を奪われていたのだ。
「結局、丸沼や中禅寺湖で彼らが求めたのは非日常なんだな。そして贅沢な時間と空間。ま、俺たちとレベルは違うけど、そういう心持ちで釣りを楽しんでみるのもいいと思うんだよ。だから、今回はそんなテーマで出かけることにしよう。

鬼の前編集長がやってきた

このミッションで、奥日光の魅力を伝えるため、山根編集長が選んだ今回のパートナーは三浦修さん。広告のコピーライターから、新聞雑誌の執筆、テレビ番組の企画まで手掛ける方だとか。実はこの人、山根さんの前の月刊『つり人』編集長。さらにその前には姉妹誌『Basser』の編集長だったというから、ゲームフィッシングにも詳しいという。
「昨秋の月刊『つり人』でも、中禅寺湖のワカサギ釣りに絡めて丸沼など奥日光の歴史を書いてもらったんだ。ま、いろいろ教えてもらうんだな…」と山根さん。
「三浦さんとは1泊2日だったけど、あっち行けこっち行けとすごくヘビーだったよ」と落合さん。松邨さんはちょっと不安そうな表情だ。
中禅寺湖のワカサギを手にご満悦の三浦さん。釣りをしている時はいたって穏やかだという……
中禅寺湖のワカサギを手にご満悦の三浦さん。釣りをしている時はいたって穏やかだという……
出発の朝、大量の道具類がクルマのラゲッジルームに積み込まれた。籐のかご、マット、タックルボックス、クーラー…。全部、三浦さんの私物だ。
「こんなに積んで引越しみたい」と松邨さんが笑うと、すかさず厳しい声が飛んだ。
「何言ってんだ! どんな時間を過ごしたいか…それを頭に描いて、そのために必要な物を用意する。マット1枚からスプーン1本、ランチの食材から調味料までお気に入りを揃えて持っていくから満足の1日になる。一切妥協しちゃだめだ」
三浦さんの先制パンチだった。

運転席に座り、ハンドルを握った三浦さん。
「このクルマ、インテリアいいねぇ。テンション上がってきたよ。よし行くぞ!」
このひと言で丸沼までの旅は始まった。
※撮影:浦壮一郎/文:三浦事務所
※このコンテンツは、2011年9月の情報をもとに作成しております。最新の情報とは異なる場合がございますのでご了承ください。