スイスにNSXを導入したら、たちまち250台受注しました。世界で最初のNSXクラブもでき、欧州で200人の会員が登録され、NSXトロフィーというレースも始めました。とてもエキサイティングでした。そしてあるとき、スイスに導入したNSXに、あるジャーナリストを乗せたところ、大きなクラッシュをしてしまったのです。そこで、そのクルマをベースにエンジンを縦置きにしてレースカーに改造して栃木研究所に送ってあげました。1993年のことです。そうしたら、1994年のル・マンに参戦したいからコーディネートしてくれと頼まれまして、メンテナンスを英国のファクトリーに依頼したのです。そのときル・マン参戦のマシンの開発ベースとなったのは、私がつくったこのレースカーでした。(クロード・サージ)
1994年にNSXがル・マンに参戦したときドライバーを務め、フィニッシュドライバーとなって、3速しかなくなったマシンで何とかチェッカーを受け、とてつもない感動を味わいました。サージさんは、3台揃ってのフィニッシュができなかったことを悔しがっていました。あのときは、マシントラブルも大変でしたが、何が大変かというと、メンテナンスはイ
ギリス、運営は地元フランス、マシンをよく知っているのはドイツだったことです。日・英・仏・独の多国籍チームでほとんど話がまとまらない。最初は英語で話そうと決めて打ち合わせをスタートするんだけど、すぐにあちこちで自国語を話しはじめる。それが大変でしたね。秘話といえば、1993年のスパ24時間ですね。予選トップでそのままトップを走っていたんですが、ベルギーの王様が亡くなられる不幸があり、レースが中断され幻のレースとなりました。(清水和夫)
DBW(ドライブ・バイ・ワイヤ)は、NSXの前には、確かBMWの12気筒モデルが採用していたと思います。そのDBWには機械式のバックアップがたくさんついていました。例えば、スロットルが開かない場合は機械的に開けるといったものです。
一方NSXでは、できるだけシンプルにつくることをめざしました。安全上最も重要なのはドライバーの意志です。たとえば、アクセルを踏んでいないのに、踏んだと判断しては大変です。そこで、アクセルペダルからセンサーまでは従来のワイヤを用いたメカで絶対にこわれないだろうという信頼性の高いものにして、そこから先はメカは用いず、ソフトでバックアップする方式としました。安全性の証明を理論的にやるのが大変でしたね。(尾崎俊三郎)
1995年。高い信頼性と軽量化を常に模索する航空機の技術であり、一時期F1マシンの先進技術としても登場した電子スロットル、DBW(ドライブ・バイ・ワイヤ)を独自に開発し搭載。さらにATモデルのスポーツ性を高めるため、手許のレバーでマニュアルシフトを行えるFマチックを開発。MTモデルのためにはLSDをトルク感応型に進化させた。
そして1995年のNSX最大のニュースといえば、オープントップモデルであるタイプTの登場だろう。世界のスーパースポーツが、ベースとなるモデルをデビューさせてからほどなくオープンモデルを発表させるのに、NSXが5年後れでオープンモデルを登場させたことを不思議に思う声も聞かれた。
しかしそれにはきちんとした理由がある。こともあろうにNSXの開発スタッフは、ルーフのないNSXを、サーキットでもかなり楽しめるレベルまで引き上げるために長年の苦労を要していたのである。このタイプTまでも、NSXの故郷、ニュルブルクリンクで走り込んだというからそのこだわりにはもはや脱帽するしかない。ニュルをしっかりと走り込めるまでに仕上げられたタイプTに施されたボディ強化箇所は50を超えた。軽量のアルミゆえに可能となったオープントップの走りへのこだわり。NSX-Tは、まぎれもないピュアスポーツである。
時代を先んじるNSXは、その2年後の1997年に"ワインディングベスト"と称し、TYPE Sをデビューさせた。
3.2Lへと排気量を拡大したDOHC VTECエンジンに従来のスペースに納まるコンパクトな6速MTを組み合わせ、TYPE Rとオリジナルモデルの中間をいくハードサスペンションを搭載。エアコン、オーディオ、シートベルト・プリテンショナーなどの装備を搭載したままオリジナルモデル対比約45kgの軽量化を施したよりスポーティなモデルである。