バイク屋だったHondaが自動車を手掛けたとき、最初の製品はS500やS600というスポーツカーでした。ちょうど私がHondaに入社した年です。それ以来スポーツカーをやってなかった。でもHondaの連中は、スポーツカーをやりたくてしょうがなかったわけです。
だけど、本田技研からはやろうと声がかからない。研究所は幸い別会社でしたから、じゃあやっちゃおうじゃないかと。研究所で内密にスポーツカーへとつながる研究をはじめちゃったんです。あとで認めてもらうのは大変でしたけど。(川本信彦)
1981年からヨーロッパF2で、5年連続チャンピオンを獲得したエンジンがレギュレーション変更で余った。それで、本田技研には言わずに、ピニンファリーナに持って行って、ミッドシップのスポーツプロトタイプをつくってくれと頼んだんです。研究所として技術を学べるかなという気持ちもありまして。そして、できてきたプロトを、イタリアのトリノショーに出しちゃった。そしたら、大統領が見にきて、僕が握手している写真が外電で本田技研に伝わったんです。こんなスポーツカーがつくれるのかということになり、これがきっかけでNSXにつながるプロジェクトが動き出した。当時は、レジェンド用の2.5Lで中くらいのエンジンでしたので、世界最速は無理だから、ベストハンドリングカーをつくれって言ったんです。でもF1は勝つし、そうはいかなくなった。(川本信彦)
1989年にVTECエンジンを搭載したインテグラを出しちゃったわけです。それで、当然NSXもVTECですよね、といったことを言われるようになった。しかし現実は違う。これは困ったねと。このままだと、NSXを出しても技術を出し惜しみしたことになるわけです。それで、できるならVTEC化した方がいいと、川本さんに直訴しに行ったんです。川本さんも、F1で勝ってるし市場でもHondaのポジションが上がっているから、NSXにはもっと華が欲しいから、それがVTECならいいなと即断してくれました。チームにとっては大設計変更なので大変だったでしょう。しかし、あのとき苦労してVTECにしてよかったと、チームの誰もが今は思っているはずです。苦労しても結果がよければ、お客様にとってベストですから。技術者としてこんなに嬉しいことはないですね。(鈴木久雄)
NSXオーナーズ・ミーティングを始めるにあたって、訓練とか堅苦しい言葉は使わないようにしようと話しました。鈴鹿の交通教育センターは、警察の訓練などをしていましたから、ともすると固くなりがちです。NSXというスーパースポーツを手にした大人が忙しい時間を割いて集まり、楽しむわけですから。スクールじゃないんです。ドライビングは、気合いなどでは上達せず、時間がかかるもの。プロの走りを教えても、タイヤとの対話ができずにまねすると却って危ない。楽しみながら、時間をかけて、フルブレーキさえ踏めない方が少しずつうまく走れるようになっていきました。20周年のNSX fiestaでも、みなさんいい走りをしていましたし、他のサーキットでもNSXオーナーは上手いという話を聞きます。これからも、じっくり楽しみ続けて欲しいですね。(黒澤元治)
1990年といえば、Honda F1が最強の時代。マクラーレンホンダに乗るアイルトン・セナ氏がドライバーズチャンピオンを獲得した年だ。そのHondaが満を持してリアルスポーツを発売するというニュースにHondaファンは狂喜し、世界は熱い視線を浴びせた。
デビュー前、1989年のシカゴショーに現NSXとほぼ同じモデルを登場させたのをご記憶の方もあるだろう。これは、その後に予定されていたドイツ・ニュルブルクリンクでのオープンなテストをやりやすくするための準備でもあった。つまり、テストで人目についてスクープという形で世の中に伝えられるより、堂々と発表しようという配慮だった。さらに鈴鹿でのアイルトン・セナ氏や中嶋悟氏のテストを経て、その年の夏にはジャーナリスト対象の公開試乗会も行っている。発表を前にNSXをこれほどオープンにしたのは、Hondaの自信のあらわれでもあった。
「発売までに新車を3台ぐらい開発した気がする」とは、NSXチームの誰もが口にする言葉だ。小誌の取材で伺ったあまたの部品メーカーでも、「発想が大胆すぎて最初は信じられなかった」「とにかく1g単位でNGをつきつけられた」という言葉を耳にした。
――多くの人々に、完成に漕ぎつけることはできないと思われたNSX。いま笑い話となるこうした言葉の裏にこそ、NSXの革新性が潜んでいる。世界初のオールアルミモノコックボディ、3.0Lで8,000回転も回る驚異的な自然吸気エンジン、「解放するスポーツ」とも謳った群を抜く操作性と視界のよさは、既成概念にとらわれない高度なエンジニアリングから生まれた。発売時に申し込みが殺到したことも話題となった。Hondaの情熱により、日本が世界に向かい胸を張れる芸術的スーパースポーツがデビューした。1990年9月、残暑厳しい初秋のことだ。