まったく。あれから20年も経ってしまったなんて。
私の家の周りにはまだピカピカのNSXが何台もいるのに。
初めてNSXに乗ったのは、フェラーリ348を相手にいわゆる比較テストを行った時だ。乗った瞬間、凄いクルマが生まれたと私は確信した。南カリフォルニアのとんでもなく暑い日だったのにフェラーリのエアコンは十分ではなく、ラゲージスペースはオーヴンのように熱くなっていたため、カメラとフィルムの置き場所に困った覚えがある。そう、あれはまだフィルムの時代だったのだ。NSXは違った。その素晴らしい速さと同じぐらい涼しく、快適で文化的だったのである。
NSXに乗るといつもなにかホッとしたものだ。
それはドライビングポジションをはじめ、ペダルや他の操作系の配置が適切で、互いに調和するよう巧妙にデザインされていたおかげだろう。そんなことは普通のことだと思われるかもしれないが、
実はそうではない。あの当時、1990年代初頭のエキゾチックカーの場合、ドライバーが我慢してクルマに合わせなければならないことも少なくなかった。
振り返ってみると、NSXにかかわる素敵な思い出はいつも日本が舞台だった。最初はオランダの古い友人、ヴィム・ヴィーアニンクと1992年の東京モーターショーに訪れた際のことだ。あの時は天候に恵まれず、ひどい雨の中を何日も走る羽目になったのだが、おかげで大切なことに気がついた。
嵐の中でのウェット・ハンドリングにではない。外の天候にかかわらず、コクピットが常に暖かくカラリと快適に保たれていることに感心したのだ。要するに、NSXこそフェラーリやランボルギーニを震え上がらせたクルマなのだ。ただ単に美しく速いだけではなく、洗練された自動車をつくらなければならないと認識させたのがNSXである。
ポール・フレールとツインリンクもてぎを訪れた経験も忘れられない。あれは確か2002年のこと、デビュー前のNSX TYPE R プロトタイプと何台かのNSXが用意されていた。彼と私はそれぞれ別のNSXに乗り、サーキットを走った。いわゆるターンインの精度が抜群だから、いつでもコーナリング中に狙ったラインをなぞることができるし、素晴らしいV6エンジンが瞬く間に次のコーナーに連れて行ってくれる。そして、いつものように、走り出した最初のうちはポールについていけたものの、オーバルコースのアンダーパスの先の高速右コーナーを過ぎた頃には、ポールが乗ったNSXは視界から消えてしまった。そう、ポール・フレールは走り去ってしまったのだ。
スイスホンダの元社長のクロード・サージと一緒に、2005年のNSX fiestaを訪れたのも素晴らしい思い出だ。
最近、その時の鈴鹿での経験を若手のモータージャーナリストたちに話す機会があったのだが、NSXデビュー当時に運転を覚えた彼らにとって、私の話はまるでおとぎ話だったらしい。
「鈴鹿サーキットでヘルメットとNSXのキーをもらって、"思い切り楽しんでください"と言われただけ、何か聞きたいことがあればチーフ・エンジニアの上原さんにいつでも話ができた」などという体験は、
NSXをドリームカーと見る彼ら若手連中にとっては、まさに夢の旅なのである。
私自身にとってもまさしくそうだった。
彼らに語ったのは、鈴鹿サーキットを走る際の第一の問題はその歴史である、ということだ。最初の数ラップは、この場所で起きた様々な出来事を思い出すことしかできなかった。セナやプロストという名前を思い浮かべることなく、鈴鹿を走ることなどできるはずがない。S字、デグナー、ヘアピン、スプーン、130R、そしてあのシケイン。他の参加車を追いかけながら、コーナーのひとつひとつを思い出しながら走った。と、いつの間にか私はNSXとの一体感を強烈に感じていた。その時NSXと私は確かに共鳴し調和していた。かつてのエキゾチックカーはドライバーとクルマが格闘しているかのようだった。
それを変えたのはHonda NSXである。
NSXオーナーのみなさん、20周年おめでとう。他のエキゾチックカーのオーナーなら20年も経てば心配事だらけだが、あなたたちは関係ない。あなたのスポーツカーはHondaなのだから。