前号の NSXプレスに、学生時代にモーターショーで見たNSXに衝撃を受けてのちにそれを購入し、タルガ・タスマニアに出場するまでにのめり込んだオーナーのストーリーが紹介されていたのを読んで、時代とクルマこそ違うものの、僕と同じようなことをやっている好き者がいるんだな、と思った。

僕も中学生の頃、晴海を舞台とする東京モーターショーでホンダ・スポーツのデビューに立ち会って一目惚れし、いつかこいつを自分のものにしたいという思いに駆られたのだった。ただし僕の場合は、大学を卒業して自分で稼げる立場になった'70年代初めにはSシリーズはすでに生産中止されていたから、最初に手に入れた'68年型S800Mタイプ・ロードスターは、3年落ちの中古車だった。
やがてその1年ほど後に、さらに程度のいい'69年型のS800Mのロードスターに乗り換え、ふだんの脚に使いながら週末に箱根のワインディングを飛ばしたりしていたのだが、しばらくしてホンダ・ツインカム・クラブなる走り屋集団に誘われて仲間入りしたことをきっかけに、サーキットにまで足を踏み入れることになった。

最初はMタイプのサスペンションをイジって、日常の脚に使える実用性を保ったままサーキットを攻められる仕様にして愉しんでいたのだが、あるとき筑波サーキットでクラブの仲間がつくったレーシングS800をドライビングしてみて目から鱗が落ちた。

ボディを軽量化し、エンジンをチューンした純レーシング仕様の走りは、僕のロードスターとは次元の違う気持ちよさを持っていたからだ。

そうなるともう止まらない。早速、埼玉県小川町にあるJACKYというSの専門ショップでS800のシャシーとクーペボディを調達し、レーシング仕様のS800 クーペの製作を開始したのである。

時に'80年1月のことで、5月のTACS筑波クラシックカー・フェスティバルへのレース・デビューが、完成の目標だった。

それからは、東京の自宅からJACKYに週末ごとにかよってレーシング・クーペの製作に取り組んだ。エンジンのチューニングやボディのレストアなどの大仕事は当然JACKYのスタッフに任せたが、メーターパネルやスイッチボードといったコクピットの小物は、僕自身が素人細工で仕上げたのである。

それやこれやで、S800 レーシング・クーペはなんとか5月のイベントに間に合ったのだが、しかしレースを戦うことはできなかった。予選を走り始めたら、オーバーホールしないで使っていたクラッチが滑り出して、レース出走を諦めねばならなかったのだ。

もちろんその後も、レーシング・クーペをモディファイする作業は続いた。

新たに組んだレーシングエンジンを搭載し、サスペンションやブレーキにも手を加えた結果、ライトブルーのS800 クーペのラップタイムは確実に縮まっていき、'81年のイベントではフェアレディ2000やロータス・エランを破って2位でレースを終えたのに加えて、'82年には総合優勝さえ手に入れることができたのだった。

ところが翌'83年5月、トップ争いをしながらオーバースピードで飛び込んだ筑波の最終コーナーでレーシング・クーペは激しくテールスライド、リアからガードレールにクラッシュしてしまった。

S800 レーシング・クーペと過ごした日々はそこで終わるのだが、小川町の山の中のオイルの匂いに満ちたワークショップで、徹夜に近い作業を繰り返しながらその製作とモディファイに没頭した30代前半から半ばに掛けての3年半は、僕のスポーツカー生活のなかでもとりわけ熱く濃密なものとして記憶に残り続けている。

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NSX Press vol.22は1998年8月発行です。