北風に乗って、狼の遠吠えのようなエンジン音が聴こえる街。そこで、NSXのプロジェクトリーダーである上原は生まれ育った。東京は練馬。1963年頃、上原が中学生のときの出来事だ。「ウォン、ウォン」というその音は、実はホンダF-1のエキゾーストノートだった。当時のホンダの白子研究所(現在のテクニカルセンター)から聴こえてきたのである。将来、ホンダで世界屈指のスポーツカーをつくることになる男にとって、何ともふさわしいエピソードではないか。
しかし、当人はそんなことをまったく意に介さない。ホンダに入ったのも「身近な新興自動車メーカーだったから」と、あっさりと言い放つ。大学の就職担当からは、再就職の時はいつでも遠慮なくおいでと言われた。当時のホンダは、まだそういう存在だったのだ。ただ、当人はできたての会社というところが逆に気に入っていた。「新しいことをやれるチャンスが沢山あるだろう」と。寄らば大樹の陰はノーサンキュー。上原はアンチ・エスタブリッシュメントを標榜していたのだ。
子供の頃近くに米軍基地があり、アメリカのクルマをよく目にしていた。Uコンの飛行機でエンジンと戯れた。バイクも流行っていた。兄にもらったスポーツカブを乗り回し、近所のCB72にあこがれた。土地柄か、ホンダは身近だった。
高校生の時、自動車雑誌でポルシェ911の記事を見て心底感動した。日本のクルマがトロトロ走っている頃、時速200km以上をマークしていたのである。速いクルマの印象は鮮烈だった。この頃、クルマをつくれたらいいなと、上原青年は漠然と思うようになったという。そうした思いが心の奥底にあったからか、大学では機械工学を専攻した。専門課程では、「車両運動」を研究し、機械であるクルマと、生身の人間との間にある“サムシング”を解明し続けた。
ホンダに入ってからも、実験安全車の研究、市販開発車の操縦安定性のテストを10年間担当した。その後、駆動方式によるパッケージングの研究に携わり、このとき手がけたミッドシップ・リアドライブの研究をもとに、NSXのプロジェクトリーダーとなったことはご存じの方も多いだろう。
その頃のホンダでは、スポーツカーをつくりたいと誰もが思っていた。そういえば、S800以来、純粋なスポーツカーはこのメーカーから出ていないのである。自分が携われるとも思っていなかった。
しかし、いざ手がけると、アンチ・エスタブリッシュメントの情熱がむくむくと頭をもたげてきた。既成概念の打破である。そうして生まれたのがNSXだ。
そしていま、情熱の独創家は、また何かNSXでやらかしてやろうと思い、頭脳とハートをフル回転させている。その中身は?
との問いに、「さあどうなるかなあ」と虚空を見上げたあと、少し真顔になり「人車一体以上のものをめざしたいですね」と、難解なキーワードを残した。
気持ちよく走れる。これが、ホンダのスポーツカーに対する唯一無二の結論である。その「芯」に変わりはない。ただ、もっとクルマの方から人に感覚的な気持ちよさを提供し、乗る人を新しい気持ちにさせてくれるスポーツカーにしたいという。「人間を見つめなおしてくれるスポーツカー」と彼は言った。昔に戻るわけではない。スパイラル・アップである。いまだに癖のある操作性を崇めている向きもあるようだが、速く楽しく走らせるには、操る人間は快適な方がいいのは明らか。そのために、NSXは確実に進化を続ける。
長年、車両運動に関わってきた上原に言わせると、機械であるクルマと生身の人間に関わる動特性は、現在に至っても明確なる「解」が得られていない、実に深淵なる分野だという。すなわちそこには、まだまだ手つかずの鉱脈が眠っているのだ。
|