FROM COCKPIT NSXとの対話
終章「そして、経験…」岡崎宏司
過去2回に渡って、タイプRを乗りこなすための肉体的、精神的資質についてお話ししてきたが、最終回の今回は“経験”について語ってみたい。たとえ強靭な肉体があっても、大胆さと緻密さを兼ね備えた精神があっても、経験が加わらなければ、クルマを思いのままに操る技術など絶対に生まれてこないからだ。

僕の手元にある辞書にはこう書いてある。
経験…
(1)実際に見聞きし、試してみること。
(2)感覚によって得た知覚。
つまり、体で得た情報を「知」として自分の中で消化し、いつでも引き出せるような状態に整理しておかなければ、それは経験とは呼べないというわけだ。

ベテランドライバーの多くは、自分のことを指して「俺は30年間の運転経験があるから(運転が上手い)…」というようなことを言う。だが“経験”とは長い時間運転してきたからといって身につくものではない。クルマの運転に限らず、一つのことにいかに執着してきたか。その深さが経験につながるのである。
実際、ごく限られた時間でも素晴らしい経験を積む人はいる。クルマの世界で言えばレーシングドライバーがそうだ。普通の人が10年も20年もかけて積み重ねていくような経験を、彼らはその何十分の一かの時間で蓄積してしまう。しかしそれは、一般ドライバーとは関係のない世界の出来事であり、一般ドライバーには一般ドライバーなりの経験の積み重ね方がある。
短期的に腕を磨くには、ワインディングロードやサーキットを走るのが一番いい方法だ。けれど、日常的なドライビングを無為に過ごさないことこそが、一般ドライバーにとっての最も重要なファクターであると僕は考えている。

ドライビングの基本は正確なドライビングポジションにある。それを身に付けるためには、日常的に最も楽で、最もステアリングを切りやすく、最も体から力が抜けるポジションを見つけ、守り、そのベストポジションを体に馴染み込ませることだ。ブレーキングにしても、踏み方とクルマの挙動の関係を体に覚えこませると同時に、減速Gの大小による舵の効きの変化、あるいは手のひらに伝わってくる微妙な感覚を意識しながら運転する。コーナリングでは、タウンスピード程度であっても意識的にアプローチと脱出のラインを頭の中に描いてイメージトレーニングをする。

こういったことを基本としてまず実行し、その上でできるだけスムーズなドライビングを心がけることである。少しでもぎこちない動きが出たらミスをしたと思っていい。同乗者をリラックスさせる運転とでも言おうか。これがベースになり、さらに凝縮させていくと、速くて安全なドライビングへと昇華する。
つまり、タイプRに乗るような選ばれた人には、速さの前段階として“ドライビングの質”にこだわって欲しいのだ。質が上がってくれば、必然的に速くなる。質を落として荒っぽい速さを追いかけるだけでは、早晩、高い壁に突き当たることになる。さらに1レベル上の経験を積みたいなら、プロのドライバーの横に乗ることをお薦めしたい。恐らく、一回目はただただ感動するだけでテクニックを盗むことはできないだろう。しかしそれが何回か積み重なっていくと、テクニックの勘所がぼんやりとだが理解できてくるはずだ。上手いドライバーの横に乗ると、不思議なことにクルマが路面にへばりついているという印象を受ける。

たとえダートでドリフトしていても、ピタッと接地している感覚があるので不安も怖さも感じない。ところが下手な人の横に乗ると、ドライの舗装路でもクルマが何となく路面から浮いてしまっているような感覚を覚えるだろう。この違いは一体どこからくるのだろう。そうした疑問を持ってうまいドライバーの一挙手一投足をつぶさに観察すれば、何か重要なヒントが見つかると思う。
とにかく、うまくなりたいという意識を常に持ち続けることだ。その意識を持っている限り、上達は止まることはない。

最後に、これも経験がものをいう路面との対話について簡単に触れておきたい。サーキットのような閉ざされた空間でさえ天候状態によってタイヤのグリップは大きく変化するのだから、さらに複雑な要素が絡み合ってくる一般道路においては、路面を読むことが非常に難しくなってくる。舗装の荒れ具合、濡れ具合、汚れ具合、勾配など、刻々と変化するデータをリアルタイムで検証し、それに対応したドライビングをする。これが、一般路において事故を起こさず最大のアベレージを得るキーポイントだ。

最初のうちは判断に苦しむだろう。が、意識して路面を見続けることによって、いつのまにか路面というものが感覚的につかめるようになってくる。そうなれば、特に意識をしなくても体が勝手に路面に対応したドライビングをするようになるのである。
タイプRは、質の高い経験を積んできた人のために開発されたクルマだ。だから、ただ漫然と長時間乗ってきただけの人では、動かせはしても真の楽しさを引き出すことはできない。だが、いい経験を積んできた人にとっては、とことん楽しめるクルマである。

最初は、ステアリングの重さや限界の高さに戸惑うかもしれない。世界に冠たるスポーツカーと対等に付き合うには、並の経験量では足りないのだ。しかし、良質で豊富な経験を持っている人なら、クルマの方から少しずつ近寄ってきてくれるに違いない。
いずれにしても、タイプRを意のままに操るためには過去の経験の上にさらに新たな経験を積み重ねる必要があり、その過程もまた素晴らしいエンターテイメントにつながっていくはずである。
(構成:岡崎五朗)
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NSX Press vol.13 1994年3月発行