第三章:もうひとつの現実
そういえば、初めて富士スピードウェイにスーパーカブに乗って行ったときも、テープレコーダーを持参していた。バンクを、ヘアピンを走るホンダS800のエキゾーストノートを録音したのだった。再生しながら、口でエキゾーストノートを演奏する私を見て、呆れ返っていたのが、現在の女房である。
アルピーヌA411ノサーキットラン同時録音テープは、どこかにまだしまってあるはずだ。私のスポーツカーの大切な原点である。こうしたときめきを忘れて、スポーツカーに乗ることはできないと思う。
ポケットに忍ばせたテープレコーダーが気にはなったのだが、いざ加速が始まると、それどころではなくなった。まず即製のシートがうまくからだをホールドしてくれないので、自分の居場所を探すのに懸命だった。
生まれて初めて経験する強烈な加速Gに右往左往している間もなく、今度は視界が安定しない。低いシートポジションは、まったくの未知の視界に私を遭遇させたのだ。当時のピットロードはガードレールだったのだが、これが物凄い勢いで流れ去っていく。それにまったく目が追いつかない。

ようやくコースに出た。視界が急に開けて、少し落ち着くと、信じられないことがわかったのだ。期待してテープレコーダーまで用意したのに、なんとA411のエキゾーストノートは思ったほどよくないのだ。というよりも、騒音に近く、耳を圧してくる。遠くで聞くのと、中で聞くのと、大いなる違いがあったのだ。なんだ、こんなものかと、一応はA411と張り合うエポーツレーシングカーを設計していた私は、少しは優位に立てて安心したのである。
だが、タイヤが本来のグリップを回収した100Rから別世界が始まった。第一コーナーをかけ下がると、動きの俊敏さが一層増してきたのがわかった。3速ギアにシフトダウンして100Rに進入すると、猛烈な力でからだが横に押しつけられ、次に青空が斜めに傾きだした。横Gであった。そして、もう我慢ができないという横Gを味わった後に、横Gは減少に転じ、やがて加速Gが最初はじわじわと、それから一気に発生したのだ。
青空は斜めに傾きなから、後ろに過ぎ去っていった。A411はクリップをかすめると、坂を上がり、アウトに目一杯はらみ、ヘアピンに向かって再び強烈な加速を開始したのである。

めくるめく体験はまだ続いた。圧巻は最終コーナーであった。5速ギアで最終コーナーに向かったA411は、手前で4速ギアにシフトダウンした。加速も減速も横Gもない一瞬の空白状態のあと、リアタイヤがするするとスライドを始め、続いて横Gと加速Gの入り交じった奇妙な状態の中から、視界にパッとグランドスタンドが現れたのだ。 マシンから降りて、これは新しい現実であると、深く思った。私がピットから見るスポーツレーシングカーの現実と、ドライバーが知っている現実と、二つの現実が存在するのだ。だから、ドライバーと、エンジニアの私には、コミュニケーションが成り立たなかったのである。

ビデオのスイッチを切って、私は二つのことに改めて気付いた。一つは、NSX-Rはすでに当時のアルピーヌA411を越えているということであり、もう一つは、スポーツカーに乗るということは、もう一つの現実に遇いにいくことだということである。

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NSX Press vol.12 1993年8月発行