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もう少し「ルール」の話をしよう。2009年から新たに加わった「ルール」が、最高峰クラスでは史上例を見ない「タイヤのワンメイク化」だ。ミシュラン、ブリヂストン、2007年までのダンロップと、複数のメーカーから各チームに対して、マシンに合わせた専用スペックのタイヤが供給されていた時代が終わり、ブリヂストンがレースごとに定めた全車共通のスペックへと変更になったのである。
これは、陸上競技に例えれば、「オリンピックの100メートル走ランナーが全員同じサイズ、同じ材質の靴を使う」ということにも等しい。ランナーが「靴に合わせて走りを変える」ということの過酷さを考えれば、「タイヤの特性を生かすことのできるマシン開発を行う」ことが求められるメーカー、そして、そのマシンに合わせた走りをしなくてはならないライダーの置かれた環境の厳しさがおわかりいただけるのではないだろうか。
そう、800cc時代は、ライダーにとって非常に過酷な時代だったのである。
2002年から2006年の990cc 時代よりは改善されたとはいえ、4ストロークエンジンの強烈なエンジンブレーキによって暴れそうになるマシンを押さえつけつつ、ブレーキングを遅らせてコーナーに進入しなくてはならない。強烈な減速Gに耐えながらターンインしたあとは、コーナリングだ。230馬力にもなろうかというパワーを絶妙にコントロールし、タイヤのグリップ状態を感じ取りながら、ライバルより一瞬でも早く立ち上がる必要がある。
いかにMotoGPライダーのテクニックが優れていたとしても、コース上でバトルを繰り広げながら、120kmもの距離を走るレースで、毎周こんな走りをするというのは至難の業だ。
そこで、各メーカーが取り組んだのが「電子制御」だ。エンジンブレーキの効き方をコントロールすることでブレーキングの安定性を高め、パワーデリバリーを最適化してタイヤのスピニングを抑制し、コーナーからの安定した立ち上がりを実現しようと考えたのである。
「電子制御」という「バイクがコンピューターで制御される」ようにも聞こえる言葉だが、Hondaはこの厳しい戦いに挑むライダーの負担を軽減するということをテーマに開発を行っていった。二足歩行ロボット、ASIMOで培われた姿勢制御の技術までを用いてバイクの挙動を感じ取り、ライダーが本当に行いたいアクションをバイク側でサポートしようと考えたのである。同時に、メカニカルな部分にも新たな技術を投入。シフトチェンジの際に生じるショックを大幅に軽減する「シームレスミッション」を完成させている。シフトチェンジ時のショックが発生しないため、よりスムーズなコーナリングができるようなマシンづくりを進めていったのだ。
こうしてドゥカティの「圧倒的なストレートスピード」に対抗するべく始まった「コーナリングスピード競争」は年々激化。これまで、MotoGPクラスはコーナリングスピードという面では、軽量な125ccクラスや250ccクラスには及ばないというのが通常であったが、最終的にはこの関係が逆転するまでに至った。
確かに電子制御は発達した。しかし、こと、Hondaにおいては、「ライダーが本来の身体能力をフルに活用できるようにする」という「スポーツ」の象徴でもあったのだ。
4年に及ぶ「試練のとき」を経ての、トリプルタイトル獲得。2011年は、Hondaにとっては文句のつけようのないシーズンだったが、ひとつだけ残念な、そして起きてはならないことが起こってしまった。マレーシアGPでの事故により、マルコ・シモンチェリ選手が亡くなってしまったことだ。
耐え難いほどに悲しいことだが、これにも触れなければならないだろう。このスポーツが、決して最後まであきらめないライダーの勇気と、互いのリスペクトによって成り立っていることをもう一度思い出すためにも。
彼がGP250クラスのタイトルを手みやげに、MotoGPクラスにデビューしたのは、2010年。GP250クラスのマシンに比べて重く、大きいMotoGPマシンを大柄な身体でねじ伏せるかのように操る姿はダイナミックで非常に目を惹く一方、「無駄も多い」という印象だった。
しかし、この印象が一変したのは2011年シーズンのプレシーズンテストだ。この「MotoGP分析」の第1回目でもお伝えしたが、セパンサーキットのターン9からターン10の切り返しを、長い手足を利用して積極的にマシンを操りながら、最盛期のバレンティーノ・ロッシにも匹敵するすばらしいタイムでクリアしていったのだ。思いきりのよい大胆な走りはそのままに、マシンに与えるべき入力を的確に加えていく「繊細さ」が加わったように見えた。
2011年シーズン開始直後はトップグループでレースをしながらも、さあこれから、という局面で転倒してしまうなど「レース運び」という面では改善の余地があったが、シーズンが後半へ向かうにつれて「攻めどき」「守りどき」を見極める冷静さを身につけていった。
そんな彼の走りと、個性的な髪型をはじめとした魅力的なキャラクターに魅了された世界中のファンが彼を「シッチ」という愛称で呼び、レースを見守った。周囲の空気を明るくしてくれる彼の陽気なキャラクターは、もはやMotoGPにとってなくてはならないものになっていたし、レーシングライダーとしての才能のみならず、魅力的なキャラクターをも兼ね備えた、まさに「大型新人」であったと思う。
マレーシアGPの事故は、考え得るすべての不運が重なってしまったことによるもので、いかにあのレースが世界最高のライダーたちによるものであったとしても、残念ながら避けることはできなかっただろうと考えられる。転倒しはじめたマシンから離脱していたら?ということも、あの事故を目撃した直後は頭をよぎったが、そうした考えは彼にはなかっただろう。シモンチェリは4番手を走行中で「今回こそは初優勝を」と考えて走っていただろうし、手を離してしまえば最後、コントロール不能のバイクがコースを横切ることにもなる。スリップダウンしそうになるマシンの体勢を立て直そうと、最後の最後まで戦っていたのである。シモンチェリ選手のご冥福をお祈りするとともに、彼のプロフェッショナリズムに、心からの敬意を表したい。