全日本スーパーバイクのトップライダーだった玉田 誠は、2001年にHondaワークスと契約、その年のSUGOで開催されたスーパーバイク世界選手権では両ヒート優勝するなど、4ストローク使いとして活躍し、03年からMotoGPフル参戦を果たした。
このフル参戦は玉田が、MotoGPでの活動を積極的に拡大しようとしていたブリヂストンタイヤと契約することで、同社がバックアップするプラマックホンダでRC211Vのシートを得て実現したもの。チームはイタリア企業のスポンサーでスペイン人が運営するいわゆるラテン系チームだった。
MotoGPの管理団体DORNAはスペインが本拠であり、さらにはイタリア人であるロッシの活躍もあって、2000年頃からGPのリザルトにはラテン系ライダーの名前が並ぶようになっており、ほぼ日本人とその勢力を二分していた。そういった状況は、ライダーやオーナーの国籍、能力や人気を基に、スポンサーを積極的に獲得していくチームによって生まれていた。ビジネスとして確立したレースを、ラテン系チームを中心に推進するようになったと言ってもいいだろう。
その結果、ワークスのないGP125を走っていた日本人ライダーや、ワークスマシンを走らせるサテライトチームと契約した玉田、当時同じスペイン系チームと契約していた阿部などがヨーロッパを拠点に活動することになった。経済的側面でもGPは新たな時代を迎えていたのである。
その玉田は、MotoGPでの初シーズンとなる03年には、タイヤの開発ライダーを続けながらブラジルと日本で3位に入る(後に日本GPは危険行為があったとされ失格)。そして04年、第7戦ブラジルで自身の初優勝とブリヂストンタイヤのMotoGP初優勝を飾ると、以後上位入賞を繰り返し、第11戦ポルトガルではポールポジションから2位になった。
そのポルトガルではロッシを追うものの、レースは始終ロッシのコントロール下にあり、玉田はロッシを攻め落とすことができなかった。第12戦日本GPは、このレースで優勝を公言していた玉田にとって、前戦のリベンジを果たすべきレースとなったのだ。圧倒的タイムでもてぎを駆け抜け再びポールポジションを獲得した玉田は、終盤のタイム低下を抑えるため硬めのタイヤを選択して決勝に臨んだ。
レースはスタート直後の1コーナーで多重クラッシュが発生。ビアッジやロバーツをはじめとする上位ライダーがリタイアを余儀なくされた中、これを回避した玉田とロッシが後続を大きく引き離して一騎打ちを展開することになる。ファステストラップを更新しながらロッシの背後に迫っていた玉田は、5周目にロッシを抜きトップに立った。
立ち上がり加速で有利な玉田のRC211V、コーナーリングで分のあるロッシのヤマハYZR-M1。その戦いは一進一退で、ふたりの差はこう着状態のままレースは終盤にさしかかる。ロッシの優勝パターンは終盤まで背後に付け、最後にトップを奪う場合が多い。しかし、それを知っている玉田はロッシが仕掛ける余裕を与えなかった。タイヤチョイスが功を奏し、逆にラスト4周でロッシを4秒も引き離すことに成功。
こうして玉田は、実力と駆け引きをフルに生かした走りでロッシを下し、日本開催のMotoGPでの日本人初優勝という見事な勝利を飾ることとなった。また、カワサキの中野真矢が3位に入り、GPにおけるカワサキ23年ぶりの表彰台を実現。このこともまた、日本のファンを歓ばせたのである。
玉田の快挙ともいえるMotoGPの勝利の前、125ccと250ccではHondaに乗る2人のライダーが優勝していたことで、Hondaは日本GPにおける4度目の3クラス制覇を実現した。この2人こそはイタリアのアンドレア・ドヴィツィオーゾであり、スペインのダニ・ペドロサだった。現在のMotoGPでHondaのエースライダーの2人である。
ドヴィツィオーゾは01年にヨーロッパ選手権125ccチャンピオンを獲得し、02年にGP125でデビューした。例年にない激戦となった03年にランキング5位となり、この04年は前年同様に連勝することが不可能だった激戦の中、ランキングトップをひた走っていた。
レースはポールポジションからスタートしたドヴィツィオーゾがトップを独走するが、後方集団の多重クラッシュでレースは赤旗中断となってしまう。
再スタート後のレースでは、約30ポイント差のランキング3位でドヴィツィオーゾを追うアプリリアのロカテリが、トップに立って逃げきろうとするが、背後につけてチャンスをうかがっていたドヴィツィオーゾが、これを抜き去る。焦ったロカテリは最終ラップで転倒し、ドヴィツィオーゾはシーズン4勝目を決めた。
その飛び抜けたスピードを確実に結果に結びつけたドヴィツィオーゾは、結局この年シーズン最多の5勝を挙げ、2位に71ポイントの大差をつけてチャンピオンを獲得。翌年からは250ccにステップアップして活躍することになった。
ドヴィツィオーゾの前年のGP125チャンピオンで、この04年から250ccを走っていたペドロサは、ドヴィツィオーゾ同様ランキングトップで日本GPにやって来た。ここまで11戦中優勝3回・表彰台9回の成績で、2位に27ポイント差をつけていた。
なにしろ、前年のチャンピオン獲得後の最終戦で転倒し、両足骨折をしてしまい、ほとんど事前テストもできないままで臨んだ250ccの開幕戦で優勝したほどだから、非凡なライダーであることは明らかだった。
このもてぎでも予選トップ。決勝レースは、序盤から終盤まで同じスペイン人でHondaに乗るトニー・エリアスと激しいバトルを展開し、観客を大いに沸かせた。そしてラスト5周からファステストラップを連発して、エリアスを一気に3秒ほど引き離してゴールするという危なげないレースを見せつけた。
この年、ペドロサは全16戦中優勝7回・表彰台13回(うち2位5回)・リタイア1回という安定した成績で、250ccデビューイヤーでチャンピオンとなった。翌年も250ccを走り再びチャンピオンを獲得。3年連続で小中排気量のGPタイトルを獲得して、06年にMotoGPデビューを果たすことになる。
また、このレースでは、09年の250ccチャンピオンとなり、今年からMotoGPを走るHondaの青山博一が自身の初表彰台・3位に入賞している。青山はこの年、 Honda Racing スカラーシップ第一期生としてGPにフル参戦を開始していたのだった。
1位 | アンドレア・ドヴィツィオーゾ | Honda | 25分52秒175 |
2位 | ファビリッチオ・ライ | ジレラ | 26分03秒257 |
3位 | シモーネ・コルシ | Honda | 26分03秒276 |
4位 | ミルコ・ジャンサンティ | アプリリア | 26分03秒516 |
5位 | スティーブ・ユンクナー | アプリリア | 26分03秒694 |
6位 | マルコ・シモンチェリ | アプリリア | 26分06秒666 |
7位 | ホルヘ・ロレンソ | デルビ | 26分17秒454 |
8位 | ガボール・タルマクシ | マラグーティ | 26分17秒495 |
9位 | 小山知良 | ヤマハ | 26分29秒146 |
10位 | 葛原稔永 | Honda | 26分34秒125 |
1位 | ダニ・ペドロサ | Honda | 43分36秒798 |
2位 | トニー・エリアス | Honda | 43分39秒972 |
3位 | 青山博一 | Honda | 43分52秒789 |
4位 | セバスチャン・ポルト | アプリリア | 43分56秒873 |
5位 | 高橋裕紀 | Honda | 44分02秒248 |
6位 | アレックス・デ・アンジェリス | アプリリア | 44分10秒249 |
7位 | ロベルト・ロルフォ | Honda | 44分19秒882 |
8位 | 青山周平 | Honda | 44分20秒068 |
9位 | フランコ・バッタイニ | アプリリア | 44分25秒571 |
10位 | アレックス・デボン | Honda | 44分28秒798 |
1位 | 玉田 誠 | Honda | 43分43秒220 |
2位 | バレンティーノ・ロッシ | ヤマハ | 43分49秒388 |
3位 | 中野真矢 | カワサキ | 43分56秒616 |
4位 | アレックス・バロス | Honda | 43分58秒655 |
5位 | マルコ・メランドリ | ヤマハ | 44分06秒797 |
6位 | セテ・ジベルノー | Honda | 44分10秒598 |
7位 | カルロス・チェカ | ヤマハ | 44分19秒054 |
8位 | ニール・ホジソン | ドカティ | 44分31秒196 |
9位 | ルーベン・ザウス | ドカティ | 44分33秒101 |
10位 | アレックス・ホフマン | カワサキ | 44分39秒327 |