グランプリでの600勝とは、大量のシャンパンとともに、それ以上の汗と涙を意味するものである。だが、Hondaが走り続けてきたグランプリの道は、決して楽なものではなかった。現在もHondaは、レース活動を開始した1950年代とまったく同じ理由でレースに参戦している・・・・世界中のファンが鋭い目線で注目する中で、白熱したレースを通じて技術開発を行なうというのがその理由である。  
 
 

 1961年にグランプリで初優勝を飾ってから45年間。これまでHondaは年平均13勝、世界選手権に参戦していなかった60年代後半からの11年間を除けば平均17勝を挙げてきた。これは、常に技術をリードするブランドであるHondaの、その信念の中核が収めた成功を際立たせる、他に類を見ない記録である。そしてHondaは、サーキットを制する者は公道をも制すと、常に信じてきたのである。

 1961年4月。トム・フィリスがバルセロナのモンジュイック・パーク市街地サーキットで2気筒の125ccマシンを駆りHondaにグランプリ初優勝をもたらした当時、二輪の世界はヨーロッパのメーカーが席巻しており、黎明期にあった日本の二輪業界はほとんど認知されておらず、相手にされなかった。Hondaの創始者である本田宗一郎はこの状況を変えようと決意したが、1954年夏に初めて現地視察に訪れたヨーロッパで本田はショックを受けた。「あんなマシンは初めて見たし、夢に見たことさえなかった。」イギリスの有名なマン島TTサーキットを走り回るノートンやMVアグスタ、ジレラを見た後に、本田はこう語っている。

 日本へ戻ると本田は、独創的な技術と不断の努力という現在の成功の原動力となっている二つの力によって、自らの夢の力を証明しようとした。Hondaはグランプリ挑戦の最初の8年間のうちになんと138勝を挙げ、ライダーズとコンストラクターズのタイトルを合わせて34回制覇し、1966年には全クラスにおけるコンストラクターズ・タイトルを獲得した。各クラスの排気量の斬新な4ストロークエンジンによって、ぞくぞくするほど革新的な技術を持った、世界をリードする技術者としての評価を確固たるものにしたのである。1966年を闘った伝説的な集団は、5気筒125ccと2気筒50ccに、6気筒250ccと350cc、そして4気筒500ccというとてつもないモンスターマシンたちによって構成された。

 Hondaの次のグランプリ黄金期は、1980年代にNSR500、NS500、NSR250、RS250、RS125の2ストロークマシンによって始まった。その後20年以上にわたり、これらのマシンは400勝以上を挙げ、計64回のライダーズおよびコンストラクターズ・タイトルを制覇した。Hondaが世界を打ち負かす2ストロークを作り出せることを証明したのである。

 そして4ストロークマシンがグランプリに復活した2002年、Hondaはまたもやライバルたちを圧倒した。MotoGPが始まって3シーズン。V型5気筒エンジンを搭載したRC211Vは、ライダーズ・タイトルを2回、コンストラクターズ・タイトルは他に譲ることなく3年連続で獲得し、およそ40勝を挙げているのだ。