第三話 強豪耐久レーサー、RS750R。
 「1984年に8耐で優勝したRS750Rにはじめて乗ったのは、1998年のHonda50周年記念イベント『ありがとうフェスタ in もてぎ』のときです。往年のHondaレーサーのエキゾーストノートをファンの方々にきいていただくデモ走行のときでした」
 RS750Rが活躍した1980年前後、レーサーはタイヤを16インチにして前面投影面積を減らし、ハンドリングの軽快感を求めるなどハード的な過渡期にあった。その中で唯一RS750Rは18インチタイヤを採用したオートバイだった。
 RS1000などの空冷並列4気筒のエンジンレイアウトで極めたハンドリングに、グランプリレーサーであるNRゆずりの軽量コンパクトな水冷V型エンジンを融合させ新たな方向性を求めたモデルだ。ベースとなったのは1982年型V750F。Hondaスーパースポーツとしては、初の水冷エンジンと、斬新なデザインで爆発的にヒットしたモデルだ。
 Hondaは、このRS750Rを開発する前年の1983年シーズンはRS850Rで闘った。それは、1984年からそれまで1000ccだったTT-F1規定が750ccに変更されることを想定してのマシンづくりだった。1984年、HondaはRS850Rのボアを落としてRS750Rを開発。RS850Rで蓄積した豊富なデータを活かして圧倒のシーズンをめざしたのだ。
 その狙いは当った。データ蓄積の強みを活かしたRS750Rは、他を圧倒する強さを示した。8耐だけでなく、二輪のル・マン24時間やスパ・フランコルシャン24時間などの耐久ロードレースでも優勝。6戦4勝で新規定での初代チャンピオンに輝いたのだ。
 
安定指向の究極マシン
 跨がる前、宮城はRS750Rにある種の先入観を抱いていた。それは、1984年当時、宮城はこのマシンをライバルにライダーとして闘っていたからだ。宮城が乗っていたのはTT-F1レギュレーションにもとづき仕立てられていたCBX750F。しなり感のあるアルミフレームで、それをどう乗りこなすかに挑んでいた。RS750Rもそんなマシンだと考えていたのだ。ところがRS750Rは、CBXとはまったく逆。かっちりとした高剛性フレームだったのだ。
「驚きました。イベントでツインリンクもてぎのオーバルコースを走ったのですが、まるでレールの上を走っているかのようでした。オーバルコースはスピードレンジが高いので通常、ライダーにとっては何らかの不安要素が増長されてくるのですが・・・」
 もてぎのオーバルのコーナーをクリアするとき、なんの不安感もなく恐ろしいぐらいマシンを寝かすことができたという。それでいながら、マシンは岩のように安定しているというのだ。サーキットでもストリートの市販のオートバイでも、16インチタイヤが流行している時代に、RS750Rは独自の考え方で18インチタイヤを採用していた。さらにフレームも“しなり”指向ではなく、かっちりとした高剛性フレーム。サスペンションも精度が高く、タイヤのグリップレベルもぐっと高いものだった。他のマシンとは一線を画した存在だった。
「安定指向の究極のマシンですね。高剛性フレームとよく追従するサスペンション、グリップの高いタイヤという3つのファクターが必要になってくる、そんな次代への入り口につくられたマシンだったといえます」
 宮城はRS750Rをそう位置づけた。
「おそらく安定したハンドリングで耐久レースを制していく類いの、最終型に近いマシンだと思います。このあと、耐久マシンもツインスパーフレームを採用し、さらに高い次元での運動性能が追求され、ライダーが積極的にコントロールしていく方向に進化していきますから」
 RS750Rが優勝した1984年の8耐は、WGPライダーがほとんど参戦しておらず、耐久ロードレースに参戦しているライダーが主力だった。まだ耐久色が強いレース環境のなかで最高をめざしたマシン。それがRS750Rなのだ。
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