Hondaが、250ccクラスにおいて1961〜62年に達成した19連勝という連勝記録は、その後しばらく破られることはなかった。そしてこの記録を突き崩したのは、やはりMVアグスタだった。MVは68〜69年にかけて、20連勝をマーク。それまでのHondaの記録を1勝上回り、再びグランプリにおける連勝記録のトップの座についた。
Hondaが500ccクラスに復帰したのは、1979年のことだった。82年にはフレディ・スペンサーとNS500によって復帰後初優勝を果たし。すぐさま500ccクラスのトップコンテンダーへの道を駆け昇ることになる。
しかし、時代は60年代後半のようなのどかな雰囲気に包まれていたわけではない。Hondaはもちろん、ヤマハ、スズキによる実力拮抗のレースが繰り広げられ、チャンピオンは毎年のように入れ替わった。グランプリ500ccクラスは、本当の意味で最高のライダーとマシンによって彩られ、その人気はかつてないほどに盛り上がっていった。
Hondaが1-2-3位の表彰台を初めて独占したのは83年の第2戦フランスGPのことであり、この年500ccクラスに復帰後初めてのライダー/メーカータイトルを獲得している。しかし、80年代はまさに群雄割拠の時代であり、簡単に連勝を許してくれるほど500ccは甘いクラスではなかった。
またこの時代、Hondaのライダー層の厚みが充分であるとはいえなかったこともある。さしたるライバルもいなかったMVとアゴスチーニの時代ならいざしらず、毎年のようにチャンピオンが入れ替わる時代にあって、トップを狙える実力をもったライダーを複数擁することは、連勝なりメーカータイトルを実現するための欠くべからざる条件だった。これには、500ccクラス全体としての成熟も必要だった。500ccに乗ってトップクラスの争いを演じられるライダー層、各メーカーのワークスレベルマシン数の増加…、それらが整ってこそ、メーカー間の真のタイトル争いが繰り広げられる。
もちろん、多くのライダーが好んで乗りたい…という優れたマシンづくりを抜きにライダー層の増強は実現しない。90年代に入って、Hondaはミック・ドゥーハンをエースライダーとして位置づけ、さらに彼を中心として強力にNSR500の熟成を進めた。そんな中、ウェイン・レイニー(ヤマハ)、ケビンシュワンツ(スズキ)らとの間に繰り広げられた壮絶なレースは、今でも多くのファンの心に残る素晴らしいシーンとなった。
そしてドゥーハンは、その激闘を勝ち抜き、94年からの黄金時代を築き上げた。彼自身の努力と成長、そしてNSR500の戦闘力と安定性の向上が相乗効果をあげ、ドゥーハン+NSR500は90年代という、グランプリが成熟してからの時代で初めて「圧倒的な存在」と成り得た。
Hondaの連勝記録は、そんな時代の中で達成された金字塔だった。97年の開幕戦を制したドゥーハンとNSR500は、まさに破竹の勢いでシーズンを駆け抜けた。ただここで注目したいのは、他のHondaライダーも充分にトップを狙える力を備えていた…分厚いライダー層が形成されていたという部分だ。地元スペインGPを制したアレックス・クリビーレ。岡田忠之がポールポジションを奪うこともあった。カルロス・チェカの鋭い走りも注目に値するものだった。
こうして、Hondaは97年の全15戦を制し、続く98年も開幕から好調ぶりを継続させた。Hondaライダーは連勝街道を疾走し、第5戦フランスGPにおけるクリビーレの優勝によってHondaはMVの持つ20連勝に肩を並べた。
第6戦スペインGPでは、地元開催のレースに張り切るチェカがウィニングチェッカーを受け、Hondaはついに21連勝という前人未到の記録を達成。そして第7戦オランダで本領を爆発させたドゥーハンがポールtoフィニッシュにファステストラップのおまけをつけて優勝。記録は22連勝となった。
だが、最良の条件とその予見がいつもライダーを優勝へ導くとは限らない。続く第8戦イギリスGPにおけるサイモン・クラファー(ヤマハ)は、まさにすべてがピタリとはまった状態だったのかもしれない。長いレースの中には、必ずそういう瞬間を手に入れるライダーがいるのも確かだ。全ての条件と運以上のなにかを得たクラファーは、予選トップ、そしてレース中の最速ラップも奪い、自身初のウィニングチェッカーを受けた。
タイヤ選択に多少の問題はあったかもしれないが、ドゥーハンもベストのレースを展開し全力を出しきった。しかし、結果は2位となった。この瞬間、Hondaの連勝記録は「22連勝」という数字をグランプリの歴史の中に確定させることとなった。
2002年から施行されるMotoGPは、どんなレースの世界を見せてくれるのだろうか。そして、22連勝を上回るような歴史的なレースは、いつ訪れるのだろうか。グランプリはいつも期待に満ちている。グランプリはいつも、未来に向かって走り続けている。
そしてグランプリは間違いなくこれからも、偉大な歴史を刻み続けていくだろう。
そんなMVが500ccクラスのトップコンテンダーに躍り出たのは52年のこと。この年、レスリー・グラハムによってライダーランキング2位となったMVは、その後70年代に至るまで、常にこのクラスのリーダーシップを握り続けた。52年の第7戦イタリアGPで500ccクラス初優勝を果たしたMVは、その後の営々たる歴史の中で、その優勝数を積み重ねてきた。
だが時代は流れ、MVの栄光の歴史にも終焉の時が訪れる。76年の最終戦、西ドイツGP。雨のニュルブクリンクで打ち振られたチェッカーフラッグが、MVにとって最後のウィニングチェッカーとなった。この時までにMVが500ccクラスで重ねた優勝数、139勝。それはまさに、並ぶもののない絶対的な数字でもあった。
Hondaが500ccクラスで初優勝を達成したのは、1966年の第2戦西ドイツGP。60年代のレースでは、2年の参戦で10勝をマークするにとどまってる。そして82年のNS500の投入から、Hondaの新しい500ccクラスへの挑戦が始まった。以下に、年毎の優勝数をまとめてみよう。
99年終了時点での、500ccクラスにおける通算優勝数は、138勝。つまりMVの記録にあと1勝で肩を並べる位置に到達していたことになる。
99年シーズンは、Hondaにとって過渡期を迎えていた年だったかもしれない。絶対的なエースとして君臨したドゥーハンが引退し、その後を継いだクリビーレがエース役を務めてはいたが、500ccクラスの勢力図には次第に大きな変化が訪れようとしていたのも事実だ。
そんな中、新記録に向けた2000年シーズンがスタートした。しかし、Hondaは開幕から波に乗ることが出来なかった。というより、500ccクラス全体がある種の混乱の中でシーズンをスタートさせていた。第1戦ギャリー・マッコイ(ヤマハ)、第2戦ケニー・ロバーツ(スズキ)、第3戦阿部典史(ヤマハ)、第4戦ケニー・ロバーツ(スズキ)と、その優勝者の出入りは激しく、Hondaがシーズン初優勝を果たすのは第5戦のクリビーレを待たなければならなかった。
このクリビーレの優勝で、Hondaは通算139勝とMVの同数に並び、続く第6戦イタリアGPを迎えた。そしてこのイタリアGPは、シーズンの中でもトップに挙げられるほどの好レースとなった。序盤からロリス・カピロッシがレースをリード。これを500ccクラスルーキーのバレンティーノ・ロッシとヤマハのマックス・ビアッジが追うという、イタリアGPとして最高のお膳立てが揃っていた。
中盤以降、ロッシのプッシュは執拗にカピロッシを追いつめ、何度も首位を入れ替える展開となった。そしてラスト2周、トップに立って最後のワイドオープンを試みたロッシが転倒。また、これに続いてカピロッシに迫ったビアッジもラストラップに転倒し、イタリアGPは熱狂の渦に包まれながらその幕を閉じた。
優勝、ロリス・カピロッシ。これがHondaの500ccクラス、140勝達成の瞬間だった。
そして、この2000年に6勝、2001年にはグランプリ通算500勝達成を含む12勝を加算し、Hondaは合計156回の勝利を500ccクラスのレースに刻み込んだ。
1949年のグランプリ開始から53年。2001年シーズンいっぱいまでで、正式にカウントされた500ccクラスの有効レースは、579回。そのひとつひとつに勝者があり、ドラマがあり、歓声があった。
その内、156回の勝者と成り得たHondaは、いつもその歓声とともにあったことを至上の喜びとし、MotoGPの時代へと新たなチャレンジを続けることだろう。