2002年、グランプリが変わる。500ccクラスのレギュレーション変更に伴って出場マシンの枠が拡大され、これまでに増して多くのメーカーにグランプリ最高峰クラスへの出場チャンスが与えられることとなった。
新規定を施行する初年度の2002年については、まだ各社の足並みが揃わない部分もあり、一時的なエントリー減少などが見られる可能性もあるが、その変更の基本理念には「より多様なメーカーとマシンの参入を可能とすることで、グランプリの未来をさらに発展させ、よりエキサイティングで魅力的なものにしよう」という高い理想が込められている。
このマシン規定の変更は、1949年から始まった世界選手権ロードレースの歴史の中で、もっとも大きな変革に位置づけられるだろう。ただ、グランプリにおけるマシン規定の改訂は、これが初めてのことではない。歴史を振り返れば、そこにはなかなか興味深い時代への対応と工夫がみてとれる。
グランプリは、基本的には1949年の開始時と大きくマシン規定を変えずに21世紀を迎えた。しかし、グランプリの母胎となったマン島TTレースでは、初期に幾多の規定変更を行っており、その経緯そのものがその後のグランプリのマシン規定を確定する大切な要素となったことは確かだ。
1907年、第1回マン島TTが開催された時、マシンには排気量制限や重量制限が設けられていなかった。そこに存在したのは、単気筒と2気筒に分けられた二つのクラスであり、つまり単気筒と2気筒では大きく性能が異なる…という考え方だった。現在の常識で考えれば、2気筒の方が有利だから単気筒を別クラスにした…と考えがちだが、その理由はまったく逆で、当時の2気筒は単気筒に劣っていたため、救済策として2気筒クラスが別に設けられていたというから面白い。
2年後の1909年の規定でクラス分けが廃止されひとつのレースとなったものの、単気筒が500ccまで、2気筒は750ccまでとされているのだから、2気筒がどれだけ性能的に劣っていたかがうかがえる。しかし2気筒マシンはその後次第に高性能化し、1910年には単気筒500cc/2気筒670ccに、1911年には単気筒500cc/2気筒585ccへと排気量制限が変更され、そして1912年、ついにレースは500cc一本に落ち着くことになる。つまりこの1912年が、2001年まで続くグランプリの最高峰「500ccクラス」が産声をあげた年ということになる。
ちなみに出場ライダーにヘルメットの着用が義務づけられたのは1914年。しかし、1910年代から第一次世界大戦をはさんで1920年代までには、現在のレギュレーションのほとんどの部分が適応され、グランプリの基本骨格が出来上がっていった。1930年代後半=第二次世界大戦直前にはスーパーチャージャーを搭載したマシンが圧倒的な強さを見せたが、その発展は大戦によって一時中断され、1949年のグランプリ正式発足時には、戦後の燃料事情の悪化もあって、スーパーチャージャーの搭載は認められないかたちでスタートすることになる。
その後のマシン規定の大きな変更としては、1958年からの大型ダストビン・カウルの禁止があげられるが、マシンの「つくり」そのものに大きく影響する変更が加えられたのが、1969年からのマシン規定だった。500/350ccクラスが4気筒まで。250/125ccクラスが2気筒まで、50ccクラスが単気筒までという気筒数制限が設けられ、またミッション段数の上限や厳しい騒音規制も付け加えられた。これによって多気筒/多段数化の一途をたどっていた日本製マシンは出場の機会を失うことになり、Honda、ヤマハ、スズキなどが相次いでグランプリから撤退することになる。
ここまでのマシン規定の変遷の中には、2ストロークと4ストロークの違いに関するものは存在していない。2ストロークと4ストロークに格差を設けたり、混走に関する問題が大きくなってしまうこともなかった。グランプリに出場するマシンは当初から4ストロークが主流であり、2ストローク勢は常に少数派だった。60年代に入って2ストロークマシンを製造するメーカーが増えたこともあり、小排気量クラスが2ストローク主流に、そして中/大排気量クラスが4ストローク主流にと、うまく棲み分けがなされてきたという背景もある。
70年代に入ってからは、250/350ccクラスなどでマシン規定に準じた日本製2ストローク市販レーシングマシンの登場があって、この中間排気量クラスでは順調に2ストロークマシンがその勢力を拡大していくことになり、その主流は自然に2ストロークのものとなっていった。
一方500ccクラスでは、MVアグスタの独走状態が続いていたが、他に参戦する有力メーカーもなく、最大排気量でありながらこのクラス自体が停滞ぎみであったことは否めない。そして、そこに登場したのが日本製2ストロークマシンだった。1970年にカワサキが、1971年にスズキが、市販車をベースとした500ccレーシングマシンを開発しグランプリに挑戦を開始したのだ。
そして1971年8月14日第9戦アルスターGPにおいて、スズキTR500(並列3気筒)が日本製2ストロークマシンによる500ccクラス初優勝を達成。9月26日の第11戦スペインGPではカワサキHI-R(並列3気筒)が優勝を経験し、これが日本製2ストロークマシンの2勝目となった。
73年にはヤマハが純ワークスのYZR500(並列4気筒)を投入。開幕2戦を制して圧倒的な存在感を示したが、シーズン途中のアクシデントによってその後の参戦を中止し、日本製2ストロークによるタイトル獲得は達成されることはなかった。しかしこの1973年が、MVアグスタの、そして4ストロークのタイトル保持最後の年となった。翌74年以降、500ccクラスは完全に日本製2ストロークマシンのものとなり、実質的にはMVしか残っていなかった4ストローク勢は完全に戦闘力を失うことになる。
ちなみに500ccクラスで4ストロークが最後に優勝を飾ったのは、1976年8月29日の最終戦西ドイツGP。雨のレースに老兵MVを選んだジャコモ・アゴスチーニが受けたフラッグが、4ストロークに打ち振られた最後のウィニングチェッカーとなった。
こうして4ストロークから2ストロークへ移行していった500ccクラスは、その後日本製2ストロークマシンを主流として発展することになる。70年代には並列3気筒、並列4気筒、スクエア4などのシリンダー配置が試みられたが、やがて各メーカーともV型4気筒配置に落ちつき、その性能はさらに高度化していくことになる。
そして、時代は新たな要請を加えることになる。日本製2ストロークによって高度に先鋭化された500ccクラスのマシンが、一般車を含めたマシンと遊離した状態が続いていること。500ccクラスに参戦するメーカーが限定され、今後の大きな発展と活性化を見込みずらくなっていること。また2ストロークの排気ガス清浄化も重要な課題となり、数年前からFIM(国際モーターサイクリズム連盟)ではより多くのメーカーやマシンの参加を可能にする新しいマシン規定の策定がすすめられてきた。
その結果、導き出された答えが、4ストロークマシンの参戦を促進するという考え方だった。現在の高度に先鋭化された2ストロークレーシングマシンを製造出来るメーカーは限定されてしまうが、4ストロークにその門戸を拡げることで、より多くのメーカーが500ccクラスに参戦の機会を得ることになる。ただ、ここで問題となるのは、2ストロークと4ストロークの絶対的な性能差だった。
そこで今回のマシン規定では、4ストロークの最大排気量を990cc以下とし、2ストローク500ccマシンと同等の性能を発揮できる場を設けることで、多くのメーカーの参入を促し今後の発展と活性化を目指そうという方向が定められた。
こうして新しいマシン規定が設けられ、その施行は2002年シーズンからと決まった。1912年に500ccクラスが一本化されて90年、世界選手権ロードレースが開始されて53年の時を経て、いまグランプリの最高峰クラスは「500cc」クラスから「MotoGP」クラスへと、そのバトンを受け渡すことになる。
正確には、2ストロークから4ストロークへ完全に移行してしまうのではなく、無理なく両方が混走が出来る環境づくり…というのがその骨子だ。2と4の両方によって参加バリエーションが増え、また4ストロークに門戸を開くことでより多くのメーカーが参戦の機会を得たことになる。
2000年、FIMでは4ストロークに関するマシン規定の策定がすすめられていた。2000年4月に配布されたFIMのプレスリリースによれば、その概略は排気量を990cc以下(現行2ストロークは351cc〜500cc)とし、1/2/3気筒の最低重量を135kg、4/5気筒を145kg、6気筒以上を155kgと定めている。(現行の2ストロークは1/2気筒が101kg、3気筒116kg、4気筒131kg)
また、燃料タンク容量を、2002〜2003年は24リットル以下、2004年からは22リットルとし、新たな騒音規制としてレース前115dB/A、レース後120dB/Aという値も設けられることとなった。(現行の2ストロークは燃料タンク容量の規定無し。騒音規制はレース前110dB/A、レース後113dB/A)
そしてこのマシン規定の改定は、当然のようにHondaのチャレンジスピリットをかき立てることとなった。新たなレーシングマシンの創造…それはまさに、常にHondaのレース活動とともにある「挑戦」そのものと言える行為だった。
2000年4月のFIMの新規定発表を受けて、新生MotoGPクラスに向けた4ストロークマシンの開発が具体的にスタートした。そしてHondaがまず取り組んだのが、エンジンをどのような形態にするかだった。NR500から20年の時を経て、Hondaがグランプリに挑む4ストロークマシンのエンジンには、どんな形態が最適なのか…。
気筒数の制限などに大きな自由度が与えられた新レギュレーションの中で、もっとも適したエンジン形態を見つけ出すこと…それは、まったくゼロからのスタートに等しい。
そして開発グループのメンバーは、真っ白い紙の上に、「夢」を描き始めた。