![]() その1、デビュー戦から記憶に残る、“フジガス”爆発 1980年1月13日、三重県四日市市に生まれた藤波貴久は、トライアルをやっていた父親・由隆さんの影響で3歳から子ども用のオフロードバイクに乗り遊んでいた。やがて自転車トライアルを始めた藤波は、2歳年上で自転車トライアル世界チャンピオンの黒山健一と出会い、自らも自転車トライアルの世界選手権に挑戦するようになる。そして藤波は挑戦2年目、10歳にして自転車トライアル(10歳以下クラス)の世界チャンピオンを獲得。自転車で世界の頂点に立った藤波は、「バイクでも“世界一”になりたい」と、憧れていたトライアルへと転向した。 11歳で国内のトライアルにデビューした藤波は、あっという間に最上級の国際A級クラスへと昇格。しかも、史上最年少の15歳で、全日本チャンピオンを獲得した。そして96年、16歳になった藤波はHondaとともに、いよいよトライアル世界選手権への参戦を開始する。藤波の目標はもちろん、日本人初のトライアル世界チャンピオンを、日本車=Hondaで獲得することだった。 藤波の世界選手権デビュー戦は、96年の開幕戦スペインGP。結果から先に言えば19位となり、15位までのポイント獲得圏内には届かず、初戦は残念ながらノーポイントとなった。だが、この成績は決して藤波の実力を表すものではなかった。彼の走りは、デビュー戦からいきなり人々の記憶に鮮明に刻み込まれることになる。誰も登れなかった断崖絶壁を、藤波だけが、驚異的なアクセル全開走法で登りきってしまったのだ。ところが、藤波はなんと勢いあまってセクションの外へと、飛び出してしまった。結果としては失敗となったが、そのけた外れの走破力はスペインの大観衆を大いに沸かせ、東洋から来た元気いっぱいの若者には早速ニックネームがつけられた。それがご存じ、“フジガス”(=“全開男”藤波)だった。 その2、デビュー4戦目にして優勝争い デビュー2戦目の第2戦イギリスGPから6位に食い込む実力を見せた藤波は、第3戦アイルランドGPでも9位と、ルーキーらしからぬ活躍を続けた。そして、藤波がいよいよそのポテンシャルを発揮したのは、デビュー4戦目の第4戦アメリカGPだった。2日間行われた競技の1日目から、並み居る強豪たちを退けて、藤波はいきなりトップに躍り出たのだ。しかし、当時、2日制で行われていた世界選手権では、順位が2日間のトータルで決められていたため、2日目にやや調子を下げた藤波は総合4位という結果になった。それでもデビュー4戦目にして表彰台まであと一歩に迫るどころか、優勝も十分に可能な実力を見せつけたのだ。惜しむべくは、翌97年からは同じ2日制でも今日のように1日ごとに順位がつけられるシステムに変わったこと。これがもし1年早ければ、藤波はデビュー4戦目にして初優勝する快挙を成し遂げていたところだった。 ともあれ、デビュー年の藤波は、このアメリカGPで最高4位に入賞するとともに、年間シリーズランキング7位に名を連ねた。日本人のデビュー年ランキング7位は、黒山健一の同10位を上回る記録となった。そしてまた現在も、この記録は破られていない。 その3、初優勝は“日本人初”の2日間総合優勝 世界挑戦2年目となる、97年。第4戦サンマリノGP2日目で初の3位表彰台を手にした藤波は、第8戦アメリカGP2日目はさらに初の2位を奪取した。そして最終戦(第10戦)ドイツGPでの藤波は、1日目こそ4位だったが、2日目はついに初優勝を獲得。それは史上最年少17歳での初優勝という新記録となった。また、日本人ライダーが日本製マシン=Hondaで優勝したのも、これが史上初の快挙だった。しかも、2日間トータルでも3位/2位の黒山健一や1位/5位のドギー・ランプキンを下して、藤波が総合優勝を成し遂げたのだ。そしてまた、藤波は初優勝しただけではなく2位の黒山とともに日本人初の1-2フィニッシュを達成して世界のトライアル関係者を驚かせた。この年、藤波はランキング4位へと進出した。これは藤波が17歳のときのことだった。 その4、日本人初、ランキング2位 翌98年の藤波は、ランキングを4位から5位へと1つ下げてしまうことになる。とりわけ第2戦イギリスGPの2日目で16位となり、デビュー戦以来、2度目のノーポイントを喫してしまったのが大きく響いた。ただし、藤波が世界参戦してから今日まで、15位以内に入賞することができずにノーポイントとなったのは、96年のデビュー戦と98年のイギリスGP1日目の2回だけとなっている。ともあれ、デビュー3年目の藤波は、7回表彰台に上がる一方、8位や10位となることもあったのだった。 しかし、99年の藤波は、2勝目こそ挙げられなかったものの、13回も表彰台に上がる実力を身につけた。他のレースは4位2回、5位2回、6位、9位、11位だった。この結果、藤波はランキング5位から一躍ランキング2位へとジャンプアップした。いうまでもなく、この年間2位もまた、日本人初の快挙となっている。 その5、初の日本グランプリで準優勝 19歳でランキング2位へと上りつめた藤波は、当初の予定通りに「20歳で世界チャンピオン」となるべく、2000年の世界選手権に挑んだ。とりわけこの年は、シリーズ第7戦「ウイダー日本グランプリ」として、日本において初めてトライアル世界選手権がツインリンクもてぎで開催される記念すべき年となった。この第1回日本GPの1日目、藤波は1ラップ目4位と出遅れたが、2ラップ目に追い上げて2位となった。そして2日目はランプキンとし烈な優勝争いをくりひろげた藤波だったが、第7セクションでまさかのクラッシュ。縫わなければならないほど深いキズを足に負った藤波は、ランプキンにこそ届かなかったものの、マーク・コロメを振りきって堂々の2位を獲得。負傷しながらも、日本初の世界大会で準優勝する活躍でファンを湧かせた。 この00年、藤波は14回表彰台に上がるものの“2勝目”は果たせず、この年だけでも17勝をマークしたランプキンとの差は大きく、無念のランキング2位となった。 その6、日本グランプリ初優勝 01年の藤波は、第4戦ベルギーGP1日目で待望の2勝目を獲得。初優勝して以来、4年ぶりの優勝で通算2勝目をマークした。とはいえ、この年、11勝したランプキンにはまだまだ差があり、またもランキング2位に甘んじる結果となった。日本GPでも再び、2日間とも2位となった藤波だった。 だが、02年の藤波は第4戦アメリカGP2日目に3勝目を挙げたのを皮切りに、第7戦イタリアGP2日目に4勝目、第8戦ヨーロッパGP2日目には5勝目を記録した。これは黒山健一の4勝を上回る、日本人最多優勝記録となった。そして、この年は最終戦(第9戦)として行われた日本GPの1日目、藤波はついに日本GP初優勝を獲得して、日本のファンを熱狂させた。しかし、ランプキンの年間10勝には及ばず、またもランキング2位となったが、藤波はこの年だけで4勝を勝ち取ってランプキンとの差を大きく詰めている。 さらに03年、藤波は6勝をマーク。優勝回数では、ついにランプキンの4勝を上回った藤波。だが、6度表彰台を逃した藤波に対して、この年ランプキンが表彰台を逃したのは1度だけだった。このように安定して表彰台をキープしたランプキンがまたもチャンピオンとなり、藤波は5年連続ランキング2位という悔しい結果となった。 その7、チャンピオン獲得 04年は藤波にとって、そしてまた藤波をバックアップする者やファンにとって、忘れられないシーズンとなった。開幕戦アイルランドGPの1日目から優勝した藤波は、第3戦日本GPで初の2日間連続優勝を獲得するとともに、堂々のポイントランキングトップに立った。さらに第4戦アメリカGPでも2日間連続優勝する快進撃で、藤波はランキング2位のランプキンとの差を10ポイントに広げている。その後も3勝するなどして首位をキープした藤波は、最終戦(第10戦)スイスGPであの帝王ランプキンに16ポイントの大差をつけて、ついに待望の世界チャンピオンをもぎとった。過去最強のトライアルライダーともいえる宿敵ランプキンを打ち破り、Hondaとともに日本人初“世界ナンバーワン”となる快挙を、藤波はとうとう成し遂げたのだ。 その8、新型4ストロークで日本GP優勝 05年、栄光の“ゼッケン1番”をつけるとともに2ストローク・マシンから新型4ストロークエンジンを搭載したMontesa COTA 4RTに乗り替えた藤波は、第3戦日本GPの1日目=4スト3戦目にして早くも優勝を獲得。日本のファンの前で、チャンピオンの実力と新型4ストロークのポテンシャルの高さを見せつけた。とはいえ開発段階にある新型4ストでの闘いでは苦戦することもあり、シーズンを通しては2ストロークに乗るアダム・ラガに敗れてタイトルを逃す結果となった。とはいえ、藤波はこのシーズン3勝するなどして、新型4ストロークのデビュー年からランキング2位と大健闘した。 その9、骨折のピンチも乗り越えて優勝 06年の藤波は、開幕戦の直前に出場したインドアトライアルで転倒した際に、クラッチレバーを操作する大事な左手の人差し指を骨折するピンチに見舞われてしまった。出場することも危ぶまれた開幕戦は、痛みをこらえて歯を食いしばり、執念の6位入賞。そして、一週間後の第2戦ポルトガルGPはまだ折れている指で、なんと優勝を獲得。その後も体調不良に苦しめられた藤波だったが、それでも1戦も欠場することなく、世界選手権への参戦を重ねた。特に後半戦は3連勝して、シーズン4勝をマーク。タイトルは再びラガに奪われる結果となったが、見事なリカバリーでランキング2位を手にした。勝負に「たら・れば」はないが、骨折さえなければチャンピオン奪還も可能だったと思わせる実力を実感させた藤波と新型4ストローク・マシンだった。 その10、最も辛い年も日本GPは連続表彰台 07年は藤波にとって、最も辛いシーズンとなった。レプソル・モンテッサHRCのチームメートとなった弱冠20歳の新鋭トニー・ボウが新型4ストローク・マシンでチャンピオンとなり、藤波はとうとう1勝もできないまま、ラガに続くランキング3位となってしまった。とはいえ、第4戦日本GPでは、2日間とも3位表彰台を確保してファンの熱い声援に応えた藤波だった。一時は引退も考えたという藤波だったが、不振の原因を解明するとともに、08年のタイトル奪還に強い意欲を燃やしている。 その11、Honda“V10” 07年、Hondaはトライアル世界選手権において、記念すべき“V10”を達成した。ボウによって新型4ストロークが2ストローク勢を初めて凌駕しただけではなく、かつてエディ・ルジャーンが築いたV3とマーク・コロメのV1、ランプキンのV4、そして藤波のV1とともに、歴史的にも偉大な記録V10を誕生させたのだ。75年にトライアル世界選手権がスタートしてから33年の歴史において、Hondaは史上最多記録をさらに更新する10回目のチャンピオンとなる金字塔を打ち立てたのである。そしてまた、そのひとつが言うまでもなく、藤波の日本人初チャンピオンだった。 トライアル世界選手権におけるHonda歴代チャンピオン
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