小川友幸は2007年、自らが開発ライダーとして仕上げたHonda 4ストロークマシン(Honda RTL260F/Montesa COTA 4RT)で、初めての全日本トライアル選手権シリーズチャンピオンを獲得した。さらに、トライアル世界選手権ではトニー・ボウがMontesa COTA 4RTで初の世界チャンピオンを奪取。世界と日本の“ダブルチャンピオン”は、01年のドギー・ランプキンと藤波貴久以来6年ぶりとなる、歴史的な快挙となった。これは小川が、藤波らとともに新型4ストローク・マシンの熟成に精魂をかたむけてきた成果でもあった。
VOL.1では藤波とボウの対談をお送りしたが、ここでは小川に語ってもらった藤波やボウの話しをはじめ、ダブルチャンピオンマシンのテスト段階からの開発裏話、08年シーズン開幕に向けての意気込みなどをお送りしたい。
――昨年は全日本チャンピオン獲得、おめでとうございました。また、小川選手が藤波選手らととともに開発してきたマシンでボウ選手が世界チャンピオンとなり、世界と日本の“ダブルチャンピオン”を達成されました。すばらしいチームワークだったと思います。そもそも小川選手は、藤波選手やボウ選手とはどういうお付き合いがあるのですか?
小川友幸(以下、小川):「貴久(藤波)とは昔からの長い付き合いがありますし、普段から電話やメールでやりとりをしています。僕がバイクの開発をするようになってからは仕事でも当然会いますし、仕事以外でも相談を受けたり、たとえば不安を抱えていることがあればアドバイスをしたりしています。
ボウとは、そういうやりとりは無かったのですが、07年にボウがMontesa Hondaに移籍して、僕も07年からより本格的にテストに加わるようになったので、彼との付き合いが始まりました。バイクを作っていく上で、07年はどういう方向性でいくかということが、ボウ自身はまだ決まっていなかったですから。こちらから『Hondaの4ストロークはこういうものです、乗ってみてどうですか?』と聞いたら、彼は『僕はこのバイクにまず乗り込んで、バイクに慣れるようにしたい』ということでした。
それからは、貴久やドギー・ランプキンと3人でテストをするときも、ボウだけはテストよりも練習をしていましたね。貴久やドギーは4ストロークに乗り始めて3年目だったので、『前年のバイクに比べて今年のバイクはこうなので、ここはもう少しこうした方がいい、ああした方がいい』ということが分かりますからね。そうして貴久やドギーの07年のセッティングが始まったわけですが、ボウの場合はそれまでの経験が無い状態でスタートしたので、ひたすらバイクに乗っていましたよ。テストという感じでは全然無かったですね。
それでも貴久やドギーがセッティングしているのが気になったようで……。ボウは、05年から4ストロークに乗っていた貴久とドギーを信頼して、『2人のセッティングの中から、どちらにするかを選びたい』と言うので、大まかに言えば“二択”で選んでもらうようにしました」
――小川選手からボウ選手に対して、何かアドバイスしたことは?
小川:「貴久とドギーがテストしているバイクに、僕も合間を見て乗ってみて、『藤波とランプキンのそれぞれのセッティングは今こうなっている』という現状をボウに伝えるようにしました」
――それぞれの選手のセッティングの好みはどういう感じだったのですか?
小川:「ライダーの好みに関しては、おおまかに言うと藤波選手はどちらかといえば安定型のセッティングで、ランプキン選手の場合は比較的軽快に扱えてパワフルなバイクという感じです。この2人に対して、ボウ選手の好みは、だいたいのイメージですが藤波選手とランプキン選手の中間くらいの方向性だと思います」
――小川選手自身の好みや方向性は?
小川:「僕は藤波選手に近いですね。やはり安定性を重視しています。ただし、ライディングの変化とともにセッティングもどんどん変わっていくので、一概にはいえません。最近はトリッキーな動きも増えてきているので、軽快さも視野に入れた上で安定感を重視する、という方向を目指しています」
――藤波選手とは子どもの頃から兄弟のように付き合っていたそうですが、最初はどのようにして出会ったのですか?
小川:「貴久と出会ったのは、自転車トライアルやバイクを始める前のことでした。貴久が物心がついた頃にはもう僕がいた、という感じですね。本当に兄弟みたいな付き合いです。お互いの家が車で20分くらいの距離にあって、近くに住んでいたので子どもの頃からけっこうよく会っていましたね。お互いの父親が同じトライアルクラブのチーム員だったので、僕たち子どももトライアル場に連れて行ってもらい、そこで知り合ったわけです。
それから自転車トライアルも一緒にやるようになりました。そして初めて行った自転車トライアルのレースで僕が勝ったときに、黒山一郎さんに声をかけられて、黒山健一選手とも知り合ったわけです」
――トライアルを始めたキッカケは?
小川:「やはり親がトライアルをやっていた、その影響があると思います。でも自由に育てられたというか、親からトライアルをやるようにと言われたことはなく、自分で興味を持ったから始めたのだと思います。トライアルをやる前はサッカーをやっていて、トライアルには全然興味がなかったですからね。トライアルに興味を持って始めてからも、親からこうやれと言われたことはなく、自分でビデオを見て自分で練習していました。僕は性格的に人見知りする方だったので、自分から前に前にと出るタイプではなかったですね」
――小川選手は1990年に自転車トライアル(13〜14歳クラス)で世界チャンピオンになっています。そのときは、どういう感じだったですか?
小川:「あまりチャンピオンという感じではなかったですね(苦笑)。その前年は同じクラスの世界ランキング5位でしたから、1年目からチャンピオンになったわけでは無かったですし。2年目の90年は第1戦は1位でしたが、次は5位とか3位になり、トータルで1位だったわけです。だから“チャンピオンを取った”という感じはあまり無かったです。『あ、チャンピオンになってしまったな』という感じでした」
――ボウ選手の第1印象はいかがでしたか?
小川:「ボウ選手がMontesa Hondaに移籍する前に会ったときのことですが、彼はまず気性が荒いというか、精神的な部分で激しいところがある人だなと思いました。調子がいいときはすごく穏やかに乗っていますが、ちょっとミスがあるとバーッと崩れてしまうとか暴れてしまうような、そういう感覚を持っている印象がありましたね。
それがライディングにも表れていて、落ち着いて自分のイメージ通りに走っているときは信じられないところを走破したりするけれど、ちょっと崩れていくともう『えっ、こんなところで?』という失敗があったりしていた。それを、07年はマインダーやチームがしっかりとコントロールしていたし、やはりボウ自身が誰よりも落ち着いて乗っていたと思います。
また、たとえば高い段差を越える場合に、ボウは体勢を崩さずに段差の近くまで我慢していく。そして、バイクと身体をめいっぱい使う。人一倍リアサスペンションを沈めて、力を蓄える。それを段差の近くまで行って、一気に爆発させるので、高い段差を爆発的に上がることができるわけです。ライディングの技術もありますが、それよりも力がすごいですね。そこまで我慢してでもバイクを持ち上げていく自信があるという、そういう印象があります。スペイン人特有のトリッキーな動きについても強いし。『えっ、バイクでそんな動きもできるの?』と、僕の発想を越えているようなところもあります」
――以前に感じられたボウ選手の気性の激しさのようなものは、07年はだいぶ抑えられていたわけですか?
小川:「それは今もあると思いますが、07年は新しいバイクに乗って1年目でしたし、成績も安定していた。だからそれがあまり出ていなかったようです。でも何かあったときにはそれが出ることもあって、その場面を映像で見たことがありました。そのときは、すかさず周りの人間が抑えていましたね。たとえば大事なところで減点1になって荒れそうになったのですが、『まだ1点だから』と周りが抑えていたので、そういうチームワークのよさもあったと思います」
――ボウ選手は普段はどのような感じですか?
小川:「海外でマシンのテストをするときなどは、ボウと一緒に食事をしたりワインを飲むこともあります。僕自身はお酒はあまり飲みませんし、ボウも飲まないと思いますが、乾杯とかはします。そういうときはトライアルの現場とは違う面が見られますね。
たとえば競技で集中して目がギラギラしているときのような状態ではなくて、大会が終わったらライダーもみんな普通の人間というか、普通の人間に戻っているので。バカ騒ぎをしたり、しょうもないことで笑ったりするとか。とくにボウは20歳で、めちゃくちゃ若いです。やはり何もかもがボウの愛称どおり“ダイナマイト”ですね(笑)。表現するのが難しいのですが、ボウは生活スタイルや行動そのものがダイナミックで、“勢いがある”という感じです」
――藤波選手の07年についてはどう思われますか?
小川:「彼の“負けず嫌い”なところが07年は出過ぎたのではないかと思います。チームメートで同じバイクに乗るボウが第1戦から勝って、すごく意識していましたね。それほど意識しないで、自分のライディングをすれば結果も出ると思います。
バイクを作っていく上でも、たとえば『ボウのセッティングをやってみようかな』という迷いが出はじめたので、『貴久は貴久のライディングに合うセッティングがあるだろう』と常に言ってきました。それがシーズンのスタートから大きく影響していたと思います。ライバルはボウ、という感じでちょっと焦っているようなところが周りから見ているとわかりましたね。常に冷静を保つように、とアドバイスはしていましたが、それはなかなか難しいことですね……」
――ボウ選手の世界チャンピオン獲得については、ボウ選手に対してどのような言葉をかけたいですか?
小川:「まずは、『ありがとうございます』と言いたいですね。バイクを作ってきた者として、やはりちょっとは不安もありましたから。最初は貴久とドギーの2人のバイクを作っていく上で、彼らのコメントを聞いて『だいたいこんな感じだろう』というバイクを作っていったわけです。彼らが望むニュアンスをつかんで、『これがいいだろう』というのを作っていって、それが間違いが無く進んでいって、それにまたボウが加わってチャンピオンを取ったわけですから。やっぱり作っていく側としてはもううれしくて、正直に『ありがとう』と言いたい。
チャンピオンについては、個人的には貴久に取って欲しかったけれど、仕事としては貴久とドギー、ボウの『3人のうち誰でもいいから取ってもらいたい』ということでしたから。新型4ストローク・マシンでのタイトル獲得が実現されたときには、こみ上げてくるものがありました。なにしろ僕は04年のRTL250Fの日本GPデビュー時からこのバイクに乗っていて、そこからここまで関わってきていますからね。喜びもひとしおでした
」
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