ともあれ、戦いの火ぶたは切られた。日本チームの基本的な走行順は、黒山、野崎、小川、藤波の順。黒山が“切り込み隊長”を務め、一番若い野崎は最もプレッシャーがかかりにくい2番目に走行して、のびのびと力を発揮する。そして、黒山か野崎、あるいはその両方が減点された場合には、小川や藤波がチームとしての減点をまとめる。たとえば、黒山がクリーン(減点0で走破)、野崎が減点5、小川がクリーンしている場合、藤波に最も大きなプレッシャーがかかる。すなわち、藤波がクリーンすれば、上位3名の成績を足し算するルールにより日本チームのそのセクションでの成績は減点0になる。が、藤波が減点されれば、それがそのままチームの減点になるわけである。
スペインやイギリスに負けじと好スタートを切った日本は、序盤はスペインとも好勝負を展開、スペインに勝って優勝することも視野に入っていた。が、全く減点を取られないスペインに対して、少しずつ減点を重ねた日本はイギリスとの2位争いを意識しなければならなくなっていった。1ラップ目の第7セクションで黒山が腰を痛めるというアクシデントもあったが、その後はセクションによっては野崎が一番最初に走るなど、走行順のローテーションを工夫するなどして、チームの中で互いに助け合って競技を進めた。1ラップ目終了時点の結果は、スペインがなんとオールクリーン(全てのセクションを減点0で走破)して、ぶっちぎりのトップ。イギリスが減点16で2番手となり、日本はイギリスと3点差の減点19で3番手となっていた。
実はこの1ラップ目、第16セクションまでは日本がイギリスを2点リードしていたのだが、第17セクションの丸太の上りで野崎と小川が失敗して2人とも減点5になったことが大きな痛手となった。2人は、普段乗りなれているマシンとは違うため、難セクションで本領を発揮するには至らなかった。ここを藤波と黒山はクリーンしたが、チームとしてはもう1人の減点=減点5を加えなければならず、この第17セクションを減点0でこなしたイギリスに1ラップ目の逆転を許し3点差をつけられる結果となっていた。
いよいよ正念場となった2ラップ目、日本はイギリスと大接戦を繰り広げ、勝負は競技終盤までもつれこんだ。そして迎えた問題の第17セクション、ここで今度はイギリスが2人失敗して減点5を加算。日本にとっては大きなチャンスとなった。だが、残りの持ち時間はギリギリになっていたため、タイムオーバーして減点される恐れもでてきた。このとき、チームのエース藤波が、驚くべき“賭け”にでた。自分は走らずに、自ら減点5をオブザーバー(審判員)に申告して、最終の第18セクションへと先を急いだのだ。それは、「2ラップ目は黒山だけでなく、野崎や小川もクリーンするに違いない」と仲間を信じて自分は先に行き、たとえ1分でも時間を節約するという、極めて大胆な作戦だった。この藤波の期待と信頼に応えるように、3人は見事クリーン。最終セクションも、先にクリーンして待っていた藤波に続いて、黒山と野崎がクリーン。走る必要がなくなった小川はそのままゴールした。
集計の結果、減点2のタイムペナルティはあったものの、日本はトータル減点39。先にゴールしたイギリスは、タイムペナルティ減点5を加えたトータル減点45。スペインのトータル減点7には大きな差をつけられたが、ついに日本がイギリスに勝って、7年ぶりの過去最高位タイ記録となる2位を獲得したのだ。
同じ2位でも、対戦相手イギリスの地元で勝った2位は、これが初めての快挙。思えば、感慨深いものがある。トライアルは、約100年前にイギリスで生まれたモータースポーツであり、日本で本格的にスタートしたのは34年前のことになる。73年に国産初のトライアルバイクとして、Honda バイアルスTL125が発売された。それからミック・アンドリュースやゴードン・ファーレー、サミー・ミラーやドン・スミスといったイギリスの名選手からアドバイスを受けて、一時は国内4メーカーがトライアルバイクを揃えた時期もあった。
その後、Honda RTL360で82年から84年まで3年連続世界チャンピオンに輝いたベルギーのエディ・ルジャーンが来日して多大な影響を与えたこともあり、日本のトライアルは飛躍的に進歩。00年から日本でもツインリンクもてぎで世界選手権「ウイダー日本グランプリ」が開催されるようになり、04年には藤波貴久が日本人として初めて世界チャンピオンを獲得した。こうした歴史を積み重ねるとともに、1度ならず2度までもデ・ナシオンという国際舞台で本家イギリスに勝ったことは、イギリスに対する“恩返し”にもなったのではないだろうか。
それはまた、チームワークの勝利でもあった。たとえば、「チームワークは“掛け算”」という言葉がある。1人の力を1とすると、4人では1×4=4の力になるのが普通のチームワークかもしれない。調子が悪かったりケガをすれば、0.8×4=3.2がチームの力となることもあるだろう。ところが、1人が120%の力=1.2を出すとともに仲間の力も120%引き出すことができたとするならば、1.2×4=4.8。つまり、本来は4の力を4.8に増幅させることも可能になるのではないかと考えられる。そうした抜群のチームワークを発揮することができたからこそ、今回の2位があったのではないだろうか。
日本チームの2位が決定した瞬間、マン島の住人でもあるイギリスチームの主将ドギー・ランプキンが、日本チームの選手たちを祝福しにきた。「ドウモ、アリガトウゴザイマス」と流ちょうな日本語で、藤波をはじめ一人ひとりにやさしく微笑みながら握手を求めるランプキン。そしてまた、地元のファンら大観衆の温かい拍手に包まれて、日本の戦士たちはさらに喜びを爆発させたのだった。
デ・ナシオンでは男子の大会前日に女子部門のデ・ナシオンも開催されていて、萩原真理子、西村亜弥、高橋摩耶の3選手による日本女子チームは04年に過去最高2位となった(1位とは同点ながらクリーン差で2位となってしまった)実績もあるが、07年は残念ながら不参加となった。
08年の大会は9月27〜28日にアンドラで開催される。四半世紀に及ぶ歴史的にも記念すべき「第25回トライアル・デ・ナシオン」に、男女ともセンターポールに日の丸を上げることを目指して、日本を代表するライダーたちをみんなで遙かヨーロッパまで送り出そうではありませんか。
※次回は“ダブルチャンピオン”と題して、それぞれ初の王座を獲得した、07世界チャンピオン、トニー・ボウと07全日本チャンピオン、小川友幸のインタビューなどをお送りする予定です。
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