2007年のモータースポーツをふり返るとき、トライアルのワールドカップともいえる国別対抗戦「トライアル・デ・ナシオン」で2位を獲得した、日本代表チームの活躍が光る。
実は日本代表チームが世界2位を成し遂げたのは、7年ぶり、2度目の快挙になる。初めて2位となった00年の第17回大会では、若さと勢いで初の優勝争いに躍り出た感があった。それに対して今回の第24回大会では、これまでの経験を生かして立てた戦略通りに強敵イギリスを打ち破り、2度目の2位をもぎ取った。これぞまさに、日本代表チームの大きな成長を実感させる2位だった。
まずは日本のトライアル・デ・ナシオン(以下、デ・ナシオン)挑戦の歴史をふり返ってみたい。そもそもは23年前の1984年にデ・ナシオンの第1回大会がポーランドで行われ、11カ国が出場したが日本はまだ参加していなかった。それまでは“FIMカップ”だったデ・ナシオンが“世界選手権”に格上げされた87年の第4回大会(フィンランドで開催)から、いよいよ日本も参戦を開始したが、まだまだ手探りの状態だった。
デ・ナシオンの競技方法は各国4名の代表選手によるチームで出場して、セクション(採点区間)ごとに減点が少ない上位3名の成績を足していくのだが、初参戦の日本は3名で出場した。本来は1人がミスしてもほかの3人がそのミスをカバーすることができるのがチーム対抗戦のメリットだが、日本はそのメリットを生かせない状況で参戦せざるをえなかった。とはいえ、伊藤敦志、山本昌也、中川義博の3名による日本代表チームは初のデ・ナシオンで、出場12ヵ国中8位という結果を残した。
翌年は不参加となったが、翌々年の89年は再び参戦。伊藤敦志、山本昌也、中川義博、泉裕朗と初めて4名で出場した日本は、17カ国と参加国が増えた中で10位となった。その後、日本は90年に8位(出場選手は、伊藤敦志、三塚政幸、上福浦明男の3名。中川義博は左手中指骨折のため欠場)。91年7位(成田匠、小林直樹、中川義博、伊藤敦志)と順位を上げていったが、その後の3年間は諸事情によって再び不参加となった。
しかし、95年にオーストリアで開催された第12回大会に復帰した日本は、成田匠、黒山健一、小川友幸の3人体制ながらも、いきなり初の表彰台をゲット。出場22カ国中3位と大活躍した。その喜びもつかの間、その後の3年間はまたも不参加となった。だが、99年の第16回(ルクセンブルク)で日本は復活。藤波貴久、黒山健一、小川友幸、田中太一の4名が再び3位となる活躍を見せる。
そして00年、スペインで行われた第17回大会で、日本は史上初の2位を獲得する。当時、日本のエース藤波貴久(当時20歳)は、2年連続世界ランキング2位。黒山健一(当時22歳)は同5位、小川友幸(当時24歳)はスポット参戦で同17位、田中太一(当時18歳)は同20位となっていた。つまり、世界選手権で活躍していた平均年齢20歳の若きライダーたちが、その力をデ・ナシオンでも発揮したのだ。チーム体制や競技の進め方、作戦面ではまだまだ改善すべき点もあり開催国スペインの牙城を崩すまでには至らなかったが、見事な優勝争いを展開するとともに前年の優勝国であり4年連続世界チャンピオンのドギー・ランプキン率いる強豪イギリスを破って2位に躍り出たのだった。
翌01年は9月11日にアメリカで起こった同時多発テロ事件の影響で日本のデ・ナシオン参加は見合わされたが、日本の参戦は今日まで継続されている。そしてまた、成績は02年以来、5年連続で3位となっていた。スペインやイギリスとともに世界トップ3に入り続ける確固たる地位を築いた日本だったが、上位2カ国が大きな壁として立ちふさがっていたのである。
2位以上に進出することは、なかなか難しい。それどころか、昨年の日本は3位に留まることも危ぶまれるような、大きなピンチに見舞われた。選手のケガなどによりデ・ナシオン直前まで代表選手が決まらず、不参加も危惧された。なんとか出場することはできたが、ベストメンバーとはいえない3人の不利な体制で臨まなければならなかった。それでも3位と健闘したが、一時はイタリアに逆転されて4位に落ちる恐れもあったのだった。
この教訓をふまえて、07年は早くから3名の代表選手が決められ、もう1人の代表選手も全日本トライアル選手権・前半戦の成績によって選ばれた。こうして07年は、世界でもベテランと呼ばれるようになった世界ランキング3位の藤波貴久(27歳)をはじめ、全日本でし烈なタイトル争いを展開中の小川友幸(30歳)と黒山健一(29歳)、そして野崎史高(24歳)という、過去最強のベストメンバーがそろった。
とはいえ、07年のデ・ナシオンは強豪イギリスチームの地元、マン島・ダグラスでの開催であり、日本チームにとっては、アウェーでの戦いとなった。藤波以外は現地でマシンを調達することになり、普段乗りなれているマシンとは異なる厳しい環境下での戦いが強いられた。
一方のスペインは、07世界チャンピオンを獲得したばかりのトニー・ボウをはじめ、07世界ランキング2位アダム・ラガ、同4位アルベルト・カベスタニー、同6位ジェロニ・ファハルドと上位選手ばかりを集めた最強チームで、デ・ナシオンでは過去最多13回の優勝を誇る世界最強国。また地元イギリスは、7年連続世界チャンピオンの記録保持者で07世界ランキング5位の帝王ドギー・ランプキンをはじめ、同7位ジェームス・ダビル、同21位グラハム・ジャービス、そして世界選手権と併催されているジュニアカップでチャンピオンとなったマイケル・ブラウンという、粒ぞろいの布陣を整えている。
日本にとって明るい材料となったのは、まず、抽選により、一番最後にスタートする最も有利な出走順を得たことだった。つまり、先にスタートするスペインやイギリスの減点を把握しやすく、ライバルたちの成績によって自分たちの競技の進め方を考えやすい有利な立場に立てたのだ。
また、競技はダグラスの町中から海岸の岩場まで広範囲に設けられた18カ所のセクションを7時間の持ち時間で2ラップするという長丁場で、競技を追うためのトライアルバイクも必要になる。その点、今回は日本チームの監督である小谷徹氏にも、HRCを通じてモンテッサ Hondaが移動用のトライアルバイクを用意していたため、監督にとっても作戦が立てやすくなっていた。
そしてなによりも、日本人選手たちはみなトライアルライダーとして成熟している。元は4人とも同じチームに所属していて、自転車トライアルを通じて子どものころからお互いに気心が知れている仲間同士だった。それぞれが若いころよりも実力を上げているだけではなく、相手の実力を引き出す術も心得ている。普段は相手に実力を出させないようにしなければならないライバルであっても、デ・ナシオンではチームやメーカーの枠を越えて一致団結して、互いのよさを引き出すことが重要であることを熟知している面々だった。
< BACK | |1|2| | NEXT > |
Page top |