
「歴史は繰り返される」という。それは、トライアルの場合にも、当てはまるようだ。
100年近く前、トライアル競技はイギリスで発祥し、発展していった。「トライアルの神様」と呼ばれたイギリスのサミー・ミラー選手は、1957年に母国のメーカーであるアリエルと契約して、4ストローク500ccエンジンのトライアルバイクで無敵を誇った。その後、ミラー選手は1964年にスペインのブルタコと契約。2ストローク250ccエンジンの軽量なマシンで、さらに輝かしい戦歴を重ねていった。
このブルタコの成功が、同じスペインのメーカーであったMontesaやオッサの台頭につながり、スペイン製2ストロークが世界を席巻していくことになる。
1975年にスタートしたトライアル世界選手権でも、トライアルバイクは、2ストロークが主流だった。その流れを大きく変えたのが、ベルギーのエディ・ルジャーン選手(Honda)。彼もまた日本で「トライアルの神様」と呼ばれ、1982年から1984年まで、4ストロークのHondaRTL360を操り3年連続世界チャンピオンに輝いた。その後、時代は再び2ストローク全盛となっていった。
こうした流れの中で、藤波貴久選手(Honda)は04年、2ストロークのHondaRTLを駆り、日本人として初めて世界チャンピオン獲得の偉業を成し遂げた。そして05年、藤波選手とHondaは、新型4ストローク・マシンで2年連続タイトルに挑戦。環境問題により、時代は4ストローク化へと向かう、その先鞭をつけたのだ。
2005トライアル世界選手権シリーズ、第8戦終了当時、藤波選手はポイントランキング2位につけていた。乗り慣れた2ストロークで戦う、トップのアダム・ラガ選手(ガスガス)とは、13ポイント差。残り2戦・3レースで逆転の望みは残されていた。
しかし、2日制(2レース)で行われた第9戦ドイツGP。藤波選手は1日目、まさかの8位。2日目も3位となり、タイトル争いは敢えなく決着してしまう。2連勝したラガ選手が、最終戦を待たずに新チャンピオンとなった。
続いて行われた最終戦、ベルギーGP。藤波選手はまたも3位となったが、ドギー・ランプキン選手(Montesa)やアルベルト・カベスタニー選手(シェルコ)との争いには勝って、ランキング2位の座を確保した。
最終戦を終えて帰国した藤波選手を待っていたのは、地元三重県の熱烈な応援団による激励会、「藤波貴久に蹴りを入れる会」だった。そこで、ファンから素朴な疑問が寄せられた。新型4ストローク・マシンの仕上がり具合を心配する声だった。
−本当のところ、4ストロークと2ストローク、どちらがいいのか? そして4ストの仕上がり具合はどうなのか?
「今は、本当に4ストロークがいいですよ(笑)。バイクのポテンシャルはいいのです。けれども、ライダーが乗り慣れていなかった。バイクに乗り始めるのが遅れていたし、これまでに乗ったことがなかった4ストの乗り方自体を知らなかったので、慣れるのに苦労しました。最初はパワーが足りないように感じたけれども、パワーを上げると扱いにくくなったので、最後はパワーを下げる方向で良くなりました」
−4ストロークに慣れるのに一番苦労したのは、どんなところか?
「4ストに慣れるというよりも、4ストの特性を知らなかったですね。どういう乗り方をしたらいいのか、誰かが教えてくれるわけでもないし、未知の世界だった。まず分かったのは、2ストの乗り方をしていたのではダメだということで、それから4ストの乗り方を模索していったのです。1年でだいぶ慣れたし、人間もバイクも、どんどん進化している。成績に浮き沈みがないように、テストを重ねて、だいぶ扱いやすいバイクになってきました」
−06年の見通しは?
「当然、チャンピオンのラガが、一番の強敵になると思う。05年はゼロからのスタートでしたが、今は新しいサスペンションやエンジンのテストが出来ているし、新しいバイクに乗り込む時間も05年よりは長くとれます。それだけに06年は、言い訳できないかもしれませんね(笑)。とにかく、成績を出せる環境が整うと思うので、皆さんに期待していただけると思います」
05年を振り返ってみると、浮き沈みの激しさが、あらためて浮き彫りになる。開幕戦は、同じマシンに乗るランプキン選手が優勝して、新型4ストのポテンシャルの高さを証明した。“ゼッケン1”のプレッシャーもあったという、藤波選手は5位につまづいている。だが、その後は調子を上げていき、第3戦日本GPでは、藤波選手が新型4スト初優勝を獲得。さらに第4戦アメリカGPでは2勝目をマークして、一躍ランキングトップに躍り出た。しかし、第6戦フランスGPで5位&8位となった結果、ランキング3位に後退。続く第7戦イタリアGPで3勝目を上げた藤波選手は、カベスタニー選手を逆転して、ランキング2位に浮上。終盤戦での逆転に賭ける藤波選手だったが、前記したように、第9戦ドイツGPでタイトルを失ってしまう。
いったい第9戦ドイツGPで、何があったのか? 1日目、8位でゴールした藤波選手は、ほとほと困り果てたような表情だった。「たぶん、プレッシャーが大半を占めていたと思うけれど…、色々な問題があった」と、唇を噛みしめる。タイトルは絶望的になってしまった。その現実が、重くのしかかっているようだった。
2日目は一転、3位表彰台に戻った藤波選手。いよいよ1日目は何があったのか、気にかかる。基本的には、フランスGPでつまづいた時と同じように、投入1年目で十分な熟成と乗り込みが進んでいない中で4スト特有の、コントロールの難しさが出たようだ。勝てることは分かったが、勝ち続けることは、まだ難しい。それどころか、時には、大きく順位を下げてしまうこともある…。
そうした状況下で、初めてタイトル防衛の瀬戸際に立たされた、精神的重圧も大きかった。また1日目は、クラッチに違和感があったという。微妙にタイミングがずれて、それが失敗につながった。クラッチを交換した2日目に、それがはっきりした。一方、誰の目にも明らかだったのは、セクションに挑む前にしゃがみ込む、藤波選手の姿だった。
実は、1日目の2ラップ目から、腰痛に襲われていた。そのため、セクションを走る前にうずくまって腰を伸ばしていたのだ。「1日目のレース後、すごく痛くなってマッサージしてもらったり温めたりシップを貼ったが、治らなかった。2日目はテーピングしたが、ウォーミングアップの段階で(痛みで)腰をかばってバランスが取れなかった。それで痛み止めを飲んでスタートしたが、薬が効かなかった」という。2日目は、意識して痛みと闘えた。しかし、1日目は突然の腰痛に襲われてバランスを崩したことが、藤波選手らしからぬ失敗の一因になっていた。
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